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安曇野の天蚕糸をめぐる歴史ロマン

 薬師寺

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安曇野のエメラルドグリーンの天蚕糸が薬師寺の大講堂に掲げられていた繍仏(しゅうぶつ)の復元に使われている。 現在、薬師寺東京別院にて製作中で、幅6メートル、天地9メートルという巨大なもので完成はあと10年ほど先になるとか。 薬師寺は法相宗の大本山で開基は天武天皇。1998年(平成10年)にユネスコより世界遺産に登録されている。
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願したとある。 しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)に没し、伽藍整備は皇后即ち持統天皇に引き継がれた。 薬師寺の管長として大講堂の再建に携わった松久保秀胤師が安曇野の天蚕飼育の視察に訪れた際の講演によれば、 大講堂に掲げられていた「繍仏」は本尊の薬師如来像が未完成だったので、 天武天皇の冥福を祈るために持統天皇が布に絹糸で阿弥陀如来像を刺繍させたものであり、 この「繍仏」の復元にあたって、天武天皇とゆかりの深い安曇野の天蚕糸が使用されることは非常に意義深いことだと言う。

 繍仏画 天武天皇と信濃、安曇野との因縁の深さについては日本書紀や幾つもの伝承によって伝えられている。
① 天武天皇が大海人皇子と呼ばれた頃、天智天皇の後継争いである壬申の乱(672年)において 大友皇子に勝利したのは信濃など東国の騎兵によるところ大であったと言われており、安曇野の猪鹿牧の馬が使用されたことが想像でる。(日本書紀・壬申紀)
② 遷都を計画するために、三野王などを信濃に派遣して地形を視察させ(日本書紀天武天皇13年1月28日条) その後、信濃国の図面が提出されている。(日本書紀天武天皇13年閏4月11日条)遷都先は安曇野という説がある。(亀山勝)
③ 束間温湯に行宮を作るよう命じた。束間温湯は浅間温泉または山辺温泉ではないかと考えられている。(日本書紀天武天皇14年10月4日条)
④ 大海人皇子と考えられる皇極の太子が安曇野を訪れて穂高神社を創建するなどの事績を残している。 皇位継承争い(壬申の乱)を見据えて勢力を扶植したか?(仁科濫觴記・信府統記)
⑤ 天武天皇は安曇族の一族とされる大海(凡海)氏に養育されたと言われ、 大海(凡海)氏が天武天皇の葬儀の折りに幼少の頃のことを誄(しのびごと)しており(日本書紀天武天皇15年9月条)、 安曇族と深い関りがあり、安曇族出身であるとする説もある。(小林耕)

このように天武天皇の信濃に寄せる思いはひとかたならぬものがあり、信濃・安曇野との深い因縁を感じざるを得ない。 その天武天皇の冥福を祈るために皇后(後の持統天皇)によって作られた「繍仏」の復元に当たって安曇野のエメラルドグリーンの 天産糸が使われることになったということは、時代を超えた壮大なロマンを感じさせる。繍仏の完成が待ち遠しい。



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