塩尻峠の戦いの折に、小笠原方から武田方に離反して小笠原氏敗北の原因を作ったとされる洗馬の三村氏。
小笠原氏を「裏切った」として不名誉な言われ方をし、かつまた武田氏から謀反の疑いありとして200余名が甲府に呼ばれて謀殺されてしまうという不運な道を辿った三村氏。
最初の拠点となった武居城を攻めた。
規模は小さく比高差は50m程ながら、堀切や横堀・竪堀などが堀巡らされてかなり作りこまれた山城だ。とくに主郭と二郭の西側の横堀に連なる連続竪堀は見事だ。
山麓には武田氏に謀殺された三村長親と、小笠原貞慶によって切腹させられたという次子の勝親など三村氏一族の墓がある。
2017年1月7日
<現地案内看板>
武居城跡は西洗馬山の北に向かう尾根の突端にあり、主郭の標高は、871メートル、山麓現在地よりの標高差約65メートルで、頂部より松本平一帯が望見できる。
城の初めは鎌倉時代末期、洗馬庄に新補地頭として入ってきた三村氏が築いたといわれている。
16世紀の初め頃、三村氏が本拠を芦の田へ移すまでは、この城が三村氏にとって最も重要な城であった。その後も城の改築が続けられ、
現在の遺構は戦国時代最末期のものである。
城は三方からの尾根を二重の大堀切で分断し、防御を堅固にしている。堀切の深さや傾斜が大変立派である。
尾根の頂部に約35×20メートルの楕円形の主郭と、約20×20メートルの正方形に近い二郭とがある。
また、主郭の西側から右回りに巡って東南部で坂虎口をなして主格内部に至る帯郭がある。
西側の斜面には、横堀から連続して下方に8本の竪堀が彫られているが、これはこの城の特徴的な防御構造である。
各部の保存状態も極めて良好で、小規模ながら実によくまとまった縄張りの山城で、戦国時代最末期の山城の実態を見事に伝えている。
また、この現在地には鳥飼いの清水があって、この城の水の手の一つであったと考えられている。
なお、この城で実戦の行われた記録は残っていない。