妙義山城は三村氏の武居城の出城として築かれ、山麓の釜井庵跡は三村氏の居館跡と伝えられるが、両城の戦略的意味合いがよく分からない。
釜井庵跡の背後の東尾根が大手道ともされているが、城の主要部に至るまでに防御遺構らしいものは見当たらない。
ひたすら登る長大な尾根が防御施設と言えば言えなくもない。南東尾根下の三村氏開基の長興寺とともに城の搦手の抑えで、
大手筋は北方の芦ノ田にある慈眼堂からと考えるのが妥当かと。今回はその大手筋にあるという大段郭群を確認できなかったのが心残り。
武居城が領域支配の本城だとすれば、妙義山城は比高差が150mの高所に築かれた詰城だと言えるかも。万一の場合は南西尾根から逃れることも可能だ。
<現地案内看板>
洗馬郷を中心とした奈良井川西岸地区は、鎌倉時代から国人領主の三村氏が支配しており、釜井庵域に居を構え、背後に妙義山城を築いたと言われている。
城は、洗馬元町の集落背後にある標高850mの妙義山に築かれていて、山頂部と麓とは約150mの標高差がある。
山頂部からは四方向(北西・北東・南西・南東)に尾根が延び、多くの曲輪・堀切・大堀切が築かれている。
北側斜面には、頂部から麓に達する大削平地群が配置され、特異な様相を示している。
なお釜井庵庭には、三村氏一族が天文24年(1555年)甲府の一蓮寺で武田信玄に謀殺されてから泣くという、夜泣き石伝説の丸石が祀られている。