筑北村の奇祭と言われる御田植祭りを写真に納めたいものと刈谷沢神明宮を訪れたが、祭りまで多少の時間があるというので、
かって訪れたことがある青柳城址を訪れた。
安曇野に移住してから、
小笠原貞慶に滅ぼされた青柳氏の係累が穂高に逃れて穂高神社の神官・大祝として脈々として続いていることを知った。
わざわざ小笠原氏のお膝元に逃れて来て、それまでの仁科系の穂高氏を継いだことの不思議さと、
穂高にはほかに保高さんや武尊さんという同じ読みをする名前があることに、何かしら歴史の綾があるような気がしてならない。
いずれ解明してみたい疑問だ。
<現地案内看板>
清長寺の館跡・その下の寺小路の両側の侍屋敷・青柳城山の山城を合わせた中世の城跡である。 始めは、坂北村全部と本城村の大部分を本領。にしていた青柳氏の城であった。 青柳氏滅亡後、武田信玄は川中島への拠点として改修し天文22年(1553)にここに10日間泊まっている。 武田氏滅亡後は小笠原貞慶がまた川中島への拠点とした。 天正11年(1583)4月から翌年までの1年間小笠原貞慶と上杉景勝との間で、ここと麻績城の取り合いが4回くり返された。 天正15年に青柳氏が滅亡して、小笠原氏の家臣の松林氏が在番している。 実戦が行われた数少ないうちの一つである。 山城には武田・小笠原の改修により、各時代の特色が残っている。 筑北村