国指定史跡 新府城跡 指定年月日昭和48年7月21日
新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、
武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、
これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。
築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後八か月余りで竣工した。ついて城下町も整ったので、
新府韮崎城と名づけ、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。
しかし戦局は日に日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、自らこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、
天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。
廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の派遣を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、
われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城神父の真価を発揮したのである。
この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は城外から俯瞰されないことで、
縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。
現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月堀、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、
帯曲輪があり北から東に堀が廻らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、
この外側には武将らの屋敷跡と伝えられる遺構・遺跡が散在している。