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池田町 滝澤城跡

ここしばらくは「安曇族」がマイブーム。海人族の安曇族が海を捨てて山国の信濃に入り安曇野に定着したという歴史ロマン。 いつごろ何処からどのような経緯で信濃入りしたのか?いや、そもそも安曇族などという族は存在しなかったなど、諸説入り乱れて収拾がつかない。 物的証拠は正倉院御物の麻袴に墨書された前科郷戸主安曇部真羊と郡司主帳安曇部百鳥の二人の名ぐらいなもの。
まずは安曇部真羊が居たという「前科郷」を探索することから始めようと、明科から池田町の河岸段丘上のエリアに通うことにした。しかし 古代の痕跡がそうそう簡単に発見できる訳もなく、土地勘を養うつもりでボチボチとやっている。
滝澤城御門跡 滝澤城御門跡
そんな時にやはり気になるのが山城跡。河岸段丘上には戦国期の山城跡や館跡がそこかしこにあって、ついつい興味がそちらの方に傾いてしまう。 というわけで池田町の滝澤城を攻めてみた。
滝ノ沢権現マレットゴルフ場から沢沿いに入る道が搦手のようだ。沢筋を扼すように右手に岩場が現れ「御門」と書かれた古看板がある。 ここからが城域となろうが砂防ダム工事のための道が取り付けられていて往時の様子を知る由もない。
左手の城跡入口の標識から入る道筋には丁寧に鎖が張られ、小郭と思われる場所には「くるわ(陣地)」との看板も立てられ、いたれりつくせりの感があって、遺構への期待感が高まる。


滝澤城搦手虎口 滝澤城 滝澤城帯郭

大手からの道と搦手からの道が帯郭で連結してここからがやや直登。ここまでいくつかの郭はあったものの小規模すぎて防御施設として有事の際に役立つのかと疑問を抱きながら登ってきたが、上を見上げるともはや山頂、本郭の雰囲気。手前に立派だが内容は纏まりがない解説看板が建てられている。 城の規模の割に看板も駐車場もきちんと整備されている。もしかしたら滝澤氏の末裔の方が管理されているのかもしれないと思った。喜ばしいことではある。

滝澤城 滝澤城本郭跡

本郭とおぼしき場所に登ってみてビックリ!東側が鋭く崩落していて廓の跡を止めていない。足元がいつ崩壊するか身の危険さえ感じて 早々に退散。通常なら頂きにある解説看板が中腹にある理由が漸く理解できた。



2015年7月13日


現地解説看板

滝澤城の沿革(滝澤家系図より抜粋)

仁科家→家臣 関谷家→滝澤城主 滝澤家

滝澤城 信濃の国仁科郷戦国の武将仁科家臣滝澤四郎城重が、滝沢地区に古城並に館を築城し、寛喜2年4月(1230)以来天文19年10月(1550)滝澤城が落城するまで320年間、戦に明け暮れる戦乱の世がつづいた。俗に戦国時代という。天文19年仁科盛能(別名道外という)が村井小屋城にいた晴信のもとに出仕し、降参している。このことは当地方にとって重大な決断であった。天文20年から21年に武田氏は平瀬城、小岩岳城を攻略し、細野城外筑北諸城を攻め残敵掃討にとりかかる。北信の一部を除き武田氏の支配下に入り、信濃国のうばいあいは一応集結となる。武田軍によってつぎつぎに落城し仁科氏は孤立無援となって守城の士気は低下した。火をつけて焼き払うか城を捨てて逃げ去るか自刃するが、応援者なく、新天地に移動し、静かに天下情勢を見守る状況であった。
  初代 滝澤城主滝澤四郎城重 法号本誉常念と号す
  (質)真々部左衛門尉直道(女)也
  仮改姓 徳永 号祐栄
  水内郡赤監邑移住居跡号奥屋敷
  時天文16年10月也因之為中興の祖以上系譜累代真跡今猶存

滝澤家系図(信濃国水内郡三水村赤監移住)

滝澤城主十代改姓 徳永 号祐栄
滝澤左衛門宗重 天文16年(1546)10月移住
滝沢城 天文19年(1550)十月落城
四年前に滝澤白より脱出、家臣長野市外小田切村小泉兵庫に総てをまかせ滝澤城を脱出。 無事三水牟田赤監邑に到着した。上杉謙信に支援を頼むか添加の状況はいかんとする合議が隠密にかわされたものと判断する。城残留部隊が最後の手段として小岩岳城落城を確認した後、永年支配した要塞堅固な山城居住館(八角形の城)に火を放つ。城を去る家臣はそれぞれ分散して総ては集結した。天文19(8月)真夏の出来事であった。
滝澤城主宗重公は天文19年十月以降は徳永祐栄改姓し、瀧澤改姓初代その後第二代 城〜三代頃より滝澤に改姓して九代頃より長野市内に進出し酒屋屋号松屋八郎看板あげ大勧進の家士となり、酒造の権利を有名な「よしのや藤井伊衛門」に譲って大勧進に力を入れた。

瀧澤城主十代 瀧澤宗重 最後の決断に迫る

瀧澤城主滝澤重茂は将監末期養子として小泉城主小泉小隼人康房二男義重を受け入れる(小泉城主従五位下、因幡守小泉康勝末流也)九代滝澤重利、滝澤城主となる。
  (室)仁科十五郎息女
   弓道達人其門者百有余人、天文10年月20日卒、98歳。法名知海院了乗応恵と号す
信濃一円並びに中央に知られる知名度の高い武将であった。弓道の達人として間者より情報を察知し、信濃国川中島合戦の勝負を見極めた。滝澤家に行く末を案じつつ義重、重利、宗重、家臣小泉兵庫(小田切村豪紙合議の結果、女性軍は犀川沿いを通って生坂村より大岡村を経て長野市に入る、後続隊宗重公外数名は女性軍のあとを追って現長野市外小田切村小泉兵庫宅に立ち寄りこれより善光寺を参拝し、普段着姿で北国街道を進む目的地まで数名の家臣が前後を戒しながら進むことに決定した。予定日天文16年9月中旬、川中島合戦の如何によって安曇野一帯を支配する仁科氏一族も弱体化して、武田軍が北上する掃討作戦が間近に迫ってきているのがわかった。仁科の援軍なしで滝澤一族が我が滝澤城を守ることは至難の業。生死を賭して戦っても長期戦は不可能である。短期決戦をしても万一新兵器の鉄砲が到来すれば一網打尽、戦況振り。自害するのか、館、山城の近辺に放火して焼払するか。結果、武田軍門とは一線も交えず、掃討作戦は必ずあるとして城主以下城を捨てて放火し逃げ去り、自ら落城することに決定した。

竹内保寿著「滝澤城主滝澤宗重公」より抜粋


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