熊野神社は、松本藩による年貢の値上げに対して軽減を訴えるべく立ち上がった多田加助たちが密議を凝らすために集まった
貞享騒動の始まりの場所だ。
同志たちが五箇条の訴状を認めた上で、死を覚悟した一味神水の儀式を行ったことは想像に難くない。
多田加助はこの騒動以前にも年貢の軽減を訴えでたことが強訴と看做されて郷倉に押し込められ、庄屋役を免ぜられている。
加助は藩士を招いて陽明学を学んでいたこともあり、過酷な年貢に苦しむ農民たちの姿を見るに忍びずの行動ではあった。
そんな加助ではあったが、熊野神社の祭りの際の席順を巡って村方と争うことがあった。
熊野神社を勧請したのは多田家の先祖であるとして上席を主張したのだ。
戦国期にはこの辺りの土豪だったという自負もあったのかもしれない。
争いは証拠文書を提示した加助の勝訴となったが、加助の筋道を通すという性格の一端が窺えるエピソードだ。
また、中萱には50本近くの堰(農業用水)が掘り巡らされているが、庄屋として堰の水利権争いの調整に奔走するなど、
周辺の村や農民から信頼を勝ち得ていたものと思われる。
元庄屋の加助が万余の農民が参加した百姓一揆の首謀者と目されたのも頷けようというもの。
そんな悲惨な事件があったのも今は昔、県下最大級のお船を力を合わせて曵き廻す様子は平和そのものです。