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貞享義民の史跡巡り

貞享騒動は貞享3年に松本藩領で起きた百姓一揆。松本藩が年貢1俵あたりの玄米の量を3斗から3斗5升に引き上げる決定を行った。 周辺藩の基準は1俵あたり2斗5升なので、1.4倍以上という著しい増税状態となった。 中萱村の多田加助をリーダーとする同志たちは、 増徴策に反対して5か条の要求を掲げて立ち上がった。 これを知った領内の農民一万人近くが城下に押しかける騒ぎとなった。 そして、いったんは要求を勝ち得たかに見えたが、藩側の奸計により指導者たちは捕らえられ磔・獄門の極刑に処せられてしまう。 貞享騒動ゆかりの地を巡った。

貞享義民社

貞享義民社
勢高の刑場で処刑された安曇郡の義民17柱と出川で処刑された筑摩郡の11柱、そして第二陣の指導者として予定されていた平林金助、 さらに事件当時の藩主・水野忠直が祀られている。
義民社の裏手に加助の屋敷跡があり、堀跡が残されている。多田家の墓も隣接してある。
加助の墓には角を削られた跡があり、これは加助を慕うあまり農業の神様と崇め、 墓石を削って田畑に撒くと病害虫に強くなり豊作になると信じられたためという。






多田加助宅跡

多田加助宅跡
東南の角に堀と土塁を巡らした跡が残る多田加助宅。上中萱を開発した土豪の末裔で、小笠原氏の配下として青柳城を攻めた武将に多田満義の名がある。
小笠原氏が古河に移封になったとき帰農して残ったものと思われる。








熊野神社

熊野神社
貞享騒動の指導者たちが密議を凝らした場所。境内には加助が逆さに刺した杖が巨木に育ったと 伝えられる逆さ杉がある。
身命を賭しての一揆だけに熊野ならではの起請文を書いて一味神水の儀式を執り行っただろうことは想像に難くない。
熊野神社を巡っては、祭りの席次のことで加助と村方一同との間でトラブルが起きたことがあり、 多田家に伝わる証拠書類によって加助の主張の正しさが立証されたという記録が残っている。
筋道を通すという加助の人間性を表すエピソードだ。



熊倉の渡

熊倉の渡
中萱から熊倉道を着て春日神社で休憩、渡しに差し掛かる。 船頭が反抗して船を出さなかったとの伝承もある。
ところが、貞享騒動の20年ほど前に既に熊倉橋が存在したとされる。洪水のたびに流されることはあったが、 貞享騒動当時には橋があったと考えられる。
舟では妻などが同行できないはずで、惜別の岩に追いつくにはかなりの時間差ができるはずで、 役人は待ってくれなかったであろから、 一緒に橋を渡って同道し泣き坂で別れたという方が正しいのでは。 ましてや安曇郡の多数の農民が松本に押し掛けるには橋があったと考える方が合理的。


加助夫婦惜別の岩

加助夫婦惜別の岩
加助一行が家族との別れを惜しんだ、この辺が泣き坂。振り返れば安曇野が一望。安曇野の見納めの場ともなっただろう。
因みに泣き坂からの眺めはは篠ノ井線の三大車窓となっている。 松があったがJRの運行の妨げということで最近伐採された。
進むと松本トンネルの有料道路に突き当たる。有料道路下の隧道を抜けると養老坂だが、現在は荒れ果てて獣みち風。 松本に入るには養老坂と、新橋から六九町、伊勢町に入る三本の道があるが、 騒ぎを恐れて人目につかない養老坂から上土の牢へのルートを選んだと思われる。



義民塚

貞享義民塚
昭和25年丸ノ内中学校体育館の建設現場にて18体の人骨が発見された。 そのうちの1体だけ埋葬の仕方が他と違うため、残りの17体とは別の原因で埋められたとされ、 17体の人骨は貞享騒動の刑死者たちのものとされた。
そのうち4体には首が無く、 1体は骨盤等の形状から女性だとされ、男として処刑された「しゅん」だと考えられている。
この勢高の地が松本藩の臨時の刑場跡とされた。昭和27年に義民塚がつくられた。




出川刑場跡

出川刑場跡
残り11名の筑摩郡関係者については田川の河原の出川刑場で処刑されたとされる。
しかし実際には、磔の刑になった者それぞれ4名が処刑場で処刑され、 残り20人の獄門刑については上土の牢獄で斬首された後3日間晒されたと考えられている。
加助ら、勢高刑場で処刑された者の遺体は川手往還(城下から川手組に通ずる)の新橋付近で、 善光寺街道沿いの出川刑場で処刑された者は刑場脇付近で、それぞれ梟首された。
遺体は騒動の功労者に試し切りさせている。



駒町の馬頭観音

駒町の馬頭観音
鈴木伊織頼常が赦免状を携えて江戸から駆けつけた早馬が骨折して処刑に間に合わなかったと言われる場所。
刑死者や関係者へのその後の処遇を考えるとこれは史実ではないことは明らかだ。 しかし28名もの犠牲者を出した事件だけに、何かしらの救いを求めたいということから生まれた伝説だろう。
鈴木伊織は農民から慕われている武士だったのだろう。





甕家の墓

甕家の墓
貞享騒動の当時、長尾組の組手代(大庄屋)だったのが甕忠左衛門。
庄屋だった多田加助は何度も年貢減免を願い出たが、奉行所に上申してもらえず、却って庄屋を免ぜられている。
一貫して藩の側に立って働いてきたため農民からは反感を買うことになり、事件後、墓石などを毀損されている。







小穴善兵衛の墓

小穴善兵衛の墓
加助45歳、善兵衛39歳ということで加助の参謀役 大男だったとか。
貞享騒動以前にも、年貢徴収をめぐって納手代とトラブル、蔵に押し込めの罰を受け、庄屋役を免ぜられている。
赤子も含めて一族7人と指導者の中では最も多くの犠牲者を出した。 また、子のしゅんは娘であるにもかかわらず男として処刑されているのは、事件において相応の活躍をしたからであろう。
「おしゅん」を顕彰する歌や演劇が創作されている。




いちょう堂

いちょう堂
善兵衛の妻お里の懐胎調べが厳しく行われた。もし男児が生まれれば処刑されることになっていた。 四ヶ寺から助命嘆願があり、安楽寺に預けることになっ内定していたが、腫物の為一か月ほどで死亡した。
処刑後に生まれた男の子を含めて一家7人を失った妻のお里は世をはかなんで尼となって善兵衛たちの墓の傍に庵を建てて籠り、 およそ50年間も念仏を唱え続けて一生を終えたという。
墓の傍に大きなイチョウの木があることから「いちょう堂」と呼ばれるようになった。



首塚

首塚
処刑された加助一家の4人の首が埋められたと伝えられる。
処刑後3日間のさらし首の後、埋められようとしたときに、 加助の親戚筋の者が4人の首を密かにもらい受けて母方の島田家の墓所の隅に埋めて、目印に柏樹を植えておいたという。
勢高の刑場跡で発見された遺骨の中に頭蓋骨のないものが4体あったという。
加助と長男の伝八(12歳)、次男の三蔵(10歳)、そして 弟の彦之丞とされている。






2015年11月7日

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