備中の松山城、大和の高取城と並び日本三大山城の一つに数えられる岩村城は女城主の城としても知られる。
岩村城主遠山景任の未亡人おつやの方は信長の叔母であり、景任は嗣子なくして死去したため、遠山家を嗣がせるために信長の五男坊丸(勝長)を養子に迎えて岩村城主としたものの、まだ坊丸(勝長)は幼かったため、城の采配はおつやの方が握っていた。これが女城主と呼ばれる由縁だ。
元亀3年(1572年)、武田家の秋山虎繁(信友)による攻撃を受けて、おつやの方は秋山虎繁を夫として迎え入れることで武田方との和議を結んだ。その際、坊丸は甲斐国に送られ、信玄の人質となった。信長は、この身内からの裏切り行為に激怒したと伝えられ、後年岩村城を織田軍が奪回した際に、秋山虎繁とおつやの方は、信長によって逆さ磔にされている。
そんな悲哀の歴史を残す岩村城は関ヶ原合戦後に入った大給松平氏によって石垣を多用した近世城郭へと衣替えし、ただ南曲輪に中世の面影を残すのみとなっている。
岐阜県指定史跡 岩村城址(現地案内看板)