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美濃 岩村城跡

備中の松山城、大和の高取城と並び日本三大山城の一つに数えられる岩村城は女城主の城としても知られる。
岩村城主遠山景任の未亡人おつやの方は信長の叔母であり、景任は嗣子なくして死去したため、遠山家を嗣がせるために信長の五男坊丸(勝長)を養子に迎えて岩村城主としたものの、まだ坊丸(勝長)は幼かったため、城の采配はおつやの方が握っていた。これが女城主と呼ばれる由縁だ。
元亀3年(1572年)、武田家の秋山虎繁(信友)による攻撃を受けて、おつやの方は秋山虎繁を夫として迎え入れることで武田方との和議を結んだ。その際、坊丸は甲斐国に送られ、信玄の人質となった。信長は、この身内からの裏切り行為に激怒したと伝えられ、後年岩村城を織田軍が奪回した際に、秋山虎繁とおつやの方は、信長によって逆さ磔にされている。
そんな悲哀の歴史を残す岩村城は関ヶ原合戦後に入った大給松平氏によって石垣を多用した近世城郭へと衣替えし、ただ南曲輪に中世の面影を残すのみとなっている。

岩村城跡長局虎口
東曲輪階段虎口

岩村城跡大手 岩村城跡六段壁
大手       六段壁  

岩村城跡二の丸石垣 岩村城跡本丸埋門
二の丸高石垣        本丸埋門    

岩村城跡本丸虎口 岩村城跡長局埋門
本丸虎口        長局埋門        

岩村城跡出丸から本丸高石垣 岩村城跡南曲輪
出丸から本丸高石垣       東曲輪階段虎口

岩村城跡東曲輪石垣 岩村城跡南曲輪
帯曲輪石垣       南曲輪方面      

2015年6月1日


岐阜県指定史跡 岩村城址(現地案内看板)

岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、 海抜711メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大山城の一つである。
 岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に 補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が 代々居住した。
戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1573年)に岩村城を奪取して入場したが、 同3年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森3代、田丸具忠と28年間に 目まぐるしく交代した。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。 江戸時代の城主は松平氏2代、丹羽氏5代のあと大給松平家の松平氏7代を経て明治維新を迎えた。
城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、 丸と曲輪は石垣や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
建物は明治維新により廃城され、後明治6年(1873年)に取壊された。
岩村町教育委員会
岐阜県教育委員会

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