平成26年度の安曇野検定準備講座の現地学習に我が安曇野ふるさとづくり応援団が協力することになって、
安曇野移住3年2ヶ月の私がガイド役の一人になることに。
参加者は検定試験を受験しようという方々だし、少なくとも地元の人であることだけは確か。そんな人たちの案内役になるなんておこがましいにも程があるけど、安曇野検定3年連続合格の自負と、松本在住の小学生時代に学んだ加助騒動の鮮明な記憶があって、一も二もなく引き受けてしまいました。
中萱は貞享3年(1686)に松本藩領を震撼とさせた百姓一揆・貞享騒動(加助騒動)の発進地、指導者たちが越訴を決断した土地です。ただでさえ重税に喘ぐ農民に対して松本藩はさらに過酷な税を課そうとし、これに反対したおよそ一万余の農民が城下に決起した事件。
事件は藩の重役たちの奸計によって加助をはじめ28名の指導者たちの磔・獄門という極刑によって幕を閉じたが、加助たちの義挙は様々な形で後世まで影響を及ぼすとともに、語り継がれることになりました。
安曇野を語るなら必ずや訪れてもらいたいのが義民の里。
貞享義民記念館
安曇野を訪れる人々を是非とも案内したいところが3ヶ所あります。
それは北アルプスと安曇野を一望する「長峰山」、安曇野を拓いた「拾ヶ堰」、そして「貞享義民記念館」です。
貞享騒動を顕彰し、騒動に関する資料等の展示・保管施設として平成4年に建てられた市立の記念館です。
シアターでは貞享義民物語が上演され、20分足らずで騒動の全容が理解できるようになっています。
熊野神社の御船祭
多田加助をはじめ貞享騒動の指導者たちが集まって密議をした場所と言われています。
百姓一揆にも作法というものがあった時代のこと、約束事を認めて連判した熊野の護符を焼いて灰にし神水に溶かして回し飲みしする、いわゆる一味神水の儀を行い決死の覚悟で決起したことが想像されます。
この日は秋の例大祭、県下最大の御船がちょうど到着して、そんな必死な昔があったことを偲ばせるよすがもなく、境内は賑やかなざわめきに包まれていました。
貞享義民社
貞享騒動から50年後、多田家邸内に処刑された多田一族4柱を祀る祠が建てられ、明治に入ってから安曇野出身の同志が合祀されました。
事件後、藩主の刃傷沙汰など災厄続きだった水野家は加助の祟りを恐れて加助像を彫らせて弔ってきましたが、
貞享義民社社殿造営の際に寄贈、以後義民社の御神体として祀られています。
因みに、刃傷沙汰によって水野家は改易され、後に戸田家が一万石減の6万石で入封、その際に犀川右岸の明科が天領となりました。
「明科は安曇野ではない」などと冷やかされる遠因はここにあったのか?
多田加助の屋敷跡
元庄屋の加助の屋敷には堀が巡っており、中世にこの地方の開拓に当たった土豪の屋敷だったと考えられます。
小笠原貞慶が松本に復帰して平定作戦を展開、その時に筑北を攻めた軍勢の中に多田満義の名があり、
多田家の祖と考えられています。武田二十四将の一人・多田満ョの末裔との伝承もあるようだが、時代が合わない。
地元土豪の末裔であり、かつ農民側に立つ庄屋として信頼感が加助をして一揆の指導者とならしめたのかも。
多田加助の墓
この墓には遺骨は埋葬されていないとか。遺骨は刑場跡に作られた義民塚に、首は楡の首塚に埋葬されているという。
加助の墓が削られているのは、加助の墓石を砕いて田畑に撒くと虫除けになると信じられたからとか。
削られた墓石と言えば、国定忠治の墓が有名、砕いた石が賭け事の御守りになるとか。
因みに、鼠小僧次郎吉は金運アップ、清水次郎長は強運の御守りとか。
ちょっと横道にそれたが、農民の守り神としての加助への尊崇の念が高じた結果の迷信ではあります。
中萱の堰
中萱にはなんと58の堰(用水路)が張り巡らされている。
上中萱を灌漑した庄野堰、下中萱を開拓した成相堰、ともに室町時代頃に梓川から導入・開削されましたが、
いずれも中萱では末流であり細々としたものでした。江戸時代に入って中萱堰が開削されてから開拓は一気に進展しました。
通水には争いがつきもの、また、堰の拡充で開拓が進めば進んだで隣村との境界争い、刈敷を確保するための入会権など、他村との争いや調整ごとは目白押し。こうした庄屋としての働きの中で加助は周囲からの信望を集めていったと思います。
屋敷林の小路
張り巡らされた堰によって中萱は安曇野有数の肥沃の土地に変貌し、豊かな農村地帯になりました。
屋敷林に囲まれた古民家や土蔵、塀や垣根が続く下中萱地区の集落の小路は安曇野らしい景観を楽しめます。
日光寺道の辻
大正デモクラシーの影響なのか、安曇野では青年団の活動が活発となり、村々の辻に道標が建てられて今に残っています。
この付近は武田時代に中萱氏を名乗る代官が居住しており、下中萱の開発に当たっていたと思われます。生垣の内側が居館跡とされ内堀屋敷の呼称が残されています。
八坂社跡の石造文化財群
日光寺道と千国道の交差点を中心に中世の六日市場が開かれていて、八坂社はその市神のスサオノミコトが祀られていた。明治39年の神社合祀令によって熊野神社に合祀されました。
境内跡には二十三夜塔、庚申塔、道祖神が建てられています。手前に庚申講の守本尊の青面金剛像が無残にも破壊されて残されています。廃仏毀釈の名残でしょうか。
ここでは二十三講について説明し、時間があれば、安曇野の道祖神は廃仏毀釈から何故免れたかを説明します。
旧法国寺観音堂跡
戦国時代に安曇野南部を支配していた真々部尾張守が開基したとされる旧法国寺の旧観音堂跡に建てられた観音堂です。
中に法国寺の本尊だった十一面観世音菩薩が安置されています。
この辺り一帯は真々部から見ると北西の方角にあたることから乾原と呼ばれ、真々部氏の馬場がありました。
見石山歓喜寺
法国寺の十王堂の跡地に明治33年に上伊那から移転してきた臨済宗の寺院です。
境内には法国寺から移されたと思われる石造文化財群があります。その中の庚申塔に廃仏毀釈の破壊の痕跡が残っています。
ここでは庚申講について説明します。
仏花山法国寺跡
戦乱の時代を経て旧観音堂跡に堂宇が再建されましたが、後にこの場所に移転しました。
明治五年に廃寺となり中萱学校として利用されました。
松本藩の廃仏毀釈によって廃寺となった寺院は140、残ったのは40寺でした。藩主自らが菩提寺の仏像・仏具、位牌までも女鳥羽川に投げ捨てたというエキセントリックなものでした。
ここでは松本藩の廃仏毀釈が他所よりもなぜ過激だったのかを説明します。
千国道
閑静な屋敷林の間を抜ける千国街道。この付近で松本道と交差しています。
辻の角のお宅では花の時期になるとオープンガーデンということで、屋敷林の中の庭を見せて頂けます。
国の登録文化財・宮澤家住宅
宮澤家は江戸時代は庄屋も務めたこの地方の旧家で、先々代は中萱村長、先代は製糸業を経営していました。
主屋や離れ、土蔵や石塀・屋根塀、門など、明治から昭和初期にかけて建築された建物が登録文化財に指定されています。