国道19号線を北上して明科の木戸橋付近で右折して筑北村に向かう国道403号線。国道を縫うように流れる細流が潮沢川で、
狭い谷間の沢筋に狭い水田や畑が張り付いている。
左岸の斜面には旧国鉄篠ノ井線の廃線敷が地元の方々によって整備されて人気のウオーキングコースになっている。
谷の両側の山中には小さな集落が所々に点在しており、
こんな山の上にまでとびっくりするような場所に一軒家が建っていたりする。
かってはたばこ栽培や養蚕、あるいは綿羊飼育で潤っていた時期もあったようようで、山中に点在する社寺や木像などにこの地域の豊かさを垣間見ることができる。
また、柏尾の抱擁道祖神や対岸にある池桜の接吻道祖神のような微笑ましい道祖神がかっての暮らしぶりを表しているようだ。
安曇野にもこんな場所があったのだと、初めてなのになぜか懐かしい山村風景にホッとする。
しかし、現在は過疎化が進行して典型的な限界集落となっている。
潮沢にはもみじ鬼人の伝説が伝わる。
八面大王と夫婦喧嘩をして家を飛び出した紅葉鬼人が住みついたのが潮沢で、
亭主に輪を掛けたような悪事を働いていたので、
八面大王を先に征伐した 坂上田村麻呂が攻め寄せて退治し、もみじ鬼人の首を埋めたのがこの場所で、鬼首大明神として祀られており、もみじ鬼人退治に絡む地名が多く残されている。
頭と尾を埋めた「柏尾」、矢を作ったところが「矢本」、放った矢が通り越した「矢越」、矢が通った下のところが「矢下」、矢が突き刺さって鬼が泣いた「名九鬼」などなど。
しかし、これらの地名の多くは戦国時代の砦に関するものと考えられている。
「矢」は「城」または「砦」と置き換えることができるというのだ。
戦国時代には潮沢川を挟んで南側は海野氏系の四賀の会田氏、北側は大町の仁科系の日岐氏、東側には筑北の青柳氏の勢力が城砦や監視所を築いて対峙していた。
左右の峰々には佐々野城・三峰城・花見城や横谷城・猿ヶ城などの山城跡がある他、城砦に関係する地名が驚くほど多い。
さらに、「大日堂」や「鬼首大明神」「大天白社」「藤城社」「地蔵堂」、さらにこの「御嶽社」など、尾根筋を切りこんで削平し、切岸も堅固に構築しており、堅固な防御施設となっており、
有事の際には武器を手に手に集落を挙げて参集したことであろう。
不便この上ない尾根近くの山中に小集落が散在しているのは戦国時代に各勢力の監視兵が配置されたことに起因すると考えられる。
潮沢の最奥部の名九鬼には平家落人伝説も伝わる。
名九鬼の集落は全戸が「降幡」姓で、平清盛の五男・重衝(奈良の大仏を焼いた武将)の息子・重度が名九鬼に落ち延びてきて「降旗」と名乗ったのが始まりとか。平家が源氏に対して旗を降ろした、つまり降参したということを表す苗字だという。
その後、南北朝時代には南朝側について平家再興の夢を追ったが破れ、武田信玄の侵攻にあっては源氏の流れをくむ武田方に帰属して「降幡」と改名したとされる。
名九鬼の地蔵堂の墓地にあるこの石塔は武田信玄に従って川中島の戦いで活躍した降幡備前守政重の供養塔とされる。
周囲にある墓石は全て「降幡」姓で、しかも丸に三階菱の家紋が刻まれている。
三階菱は源氏の血筋の小笠原系の家紋のはずだが、何故平氏の末裔の墓に?
謎は膨らんで益々面白い安曇野の山里だ。