「安曇野ふるさとづくり応援団」が主催する安曇野ウオッチングはこれまで18回を数えるが、一度も雨に降られたことがない。
今回も前日までの天気予報では雨ということだったが、早朝から時おり雨粒が混じる強風。
開催が危ぶまれましたが、定刻前に続々と集まってきた完全武装?の参加者の熱気に押されて実施を決定。
今回は、地元だということで、資料作りとガイド役を担当しました、
三川合流の地・明科
安曇野市の東部、犀川の右岸に位置する明科は、明科廃寺跡の発掘により、白鳳時代から平安時代にかけて寺院が存在していたことが分かり、
犀川に沿った古道やサケの捕獲数の記録などと合わせて考えると、古代から文化や経済上重要な位置にあったことが推測されます。
また、「塔ノ原」の地名の由来は明科廃寺に大きな仏塔が建っていたことによると言われています。
江戸時代に入るとこの地方は松本藩領となり、享保10年(1725年)以後は、川手筋は幕府の天領となっていました。
この時代の農村の人々は、新田の開拓や用水路の開削に大きな努力を払ってきました。
養魚場
安曇野の虹鱒養殖は明科に生まれた倉科多策が1926年(大正15)に、私財5万円を投じ、湧水を利用して養鱒場を設け、
長野県に無償で貸与したのが始まりです。
その後、山手線の電力を供給するために犀川筋に発電所のダムが建設されて、
鮭の遡上が途絶えたため、その漁業補償によって水産試験場が作られ養殖の研究が行われました。
その結果、安曇野ではニジマスが適していることが判明し、
民間でのニジマス養殖が盛んになり、昭和30年代には欧米への輸出産業の花形となりました。
横山熊右衛門の碑
犀川は古来より洪水によって流路を頻繁に変えてきました。
とりわけ三川合流の地の明科と豊科付近は高度差が少ないために洪水被害は大きくなりました。
田畑が焼失したり、村境が不明になったりして、
犀川を挟んで村々が川除普請(堤防工事)を巡ってしばしば争いを起こしてきました。
塔原村・光村と重柳村方面とでは200年間に20回を超す争いがあり、
塔原村・明科村と押野村との間では松本藩手代・横山熊右衛門の切腹事件が起きています。
(犀川橋西詰の下流約100mの堤防下に記念碑があります)
塔原館跡
鎌倉時代、川手郷の地頭となって東信から塔原に進出してきた海野氏の一族が塔原氏を名乗り、詰城として塔原城を築き、
会田川河口付近にはこや城と茶臼城を築いて固めました。
室町時代に入ってからここ明南小学校付近に塔ノ原館を築いて移りました。
塔ノ原館は明南小学校及び中学校敷地の南部一帯にあり、上手屋敷と呼ばれました。その折に雲龍寺を開基しました。
天文22年(1553)の武田信玄の侵攻に際しては塔原城は戦わずして自落、信玄は塔原氏の後に上州から海野三河守を入れ、
塔原氏はその副将としました。塔原氏の一部は会田岩下氏に仕えたとされます。
武田氏滅亡後、海野三河守は松本に復帰した小笠原貞慶に従うも、小岩嶽城の古厩氏・稲倉城の赤沢氏とともに謀反を謀ったとして暗殺され、塔原城も急襲されて城と館も破却されてしまいました。
源川山雲龍寺
大同2年に開創されたと伝わる古刹。元禄時代には七堂伽藍を備え、寺領1町5反余、寺中に子院養泉院を構えた大寺でした。
本尊の大日如来像は文明2年(1470)の銘があり、塔原氏により東信から移されたものと言われています。
寺宝として、諏訪出身の名工・立川和四郎と潮の名工石井佐兵衛の合作とみられる大黒天像があります。
山門 天明3年(1783)大町の名工・曽根原安右衛門他による建築。八角円柱・八脚の構架による楼門造り。
2階に高欄を巡らした仏室があり、釈迦如来・十六羅漢を安置しています。
本堂 明和6年(1769)越後出雲崎の名工・小黒和田七郎の手に拠り建てられた、この地方の禅宗寺院でも特に広壮な建物です。
石造文化財群
道祖神(明治6年) 大黒天像(明治6年) 庚申塔(安政7年)
念仏供養塔(享和元年・文政4年) 如意輪観音像 馬頭観音像 文化〜昭和)
文帝筆塚 (元治2年1865)
筆は、古くから「文房至宝」(ぶんぼうしほう)の一つとして大切にする習わしがあり、
筆に関わる職業の人達(書道家や絵師)は使い古した筆を甕(かめ)に入れて、貯まると土中に埋め、
その上に塚を建て、筆への感謝を示したり、恩師を顕彰しました。
法音寺
光氏の氏寺として松本市四賀五常から移転、当時は報恩寺といわれていました。
元禄時代には大きな寺でしたが、現在は住職も居らず荒れ果てています。
塔原館の南を守る位置にあるため、戦国時代の居館か砦跡だと思われ、
寺裏の古い墓地には室町時代の宝篋印塔と戦国時代の五輪塔があります。
犀宮神社
明治35年に開通した篠ノ井線が敷地内を通っているため境内が損なわれてしまいました。
安永2年(1773)建立の棟札が残されています。
祭神は日本武尊・大山祇命・建御名方命の三神。
境内社の一つに八面大王の祠があります。坂上田村麻呂に成敗された八面大王の頭を埋めた御宝田の社を移したとされています。
また、塔ノ原の「塔」は「頭」に通じるところから、地名の由来になったと言われています。
塔ノ原に八面大王の頭が埋まっているおかげで疫病が流行しないといわれています。
犀宮神社は泉小太郎が犀龍に乗って犀川の流れを開いたという治水伝説が残る神社です。
母の犀龍は身体が赤かったことから「赤龍」といわれ、犀宮の祭礼で「赤幟」を立てるのはこのためだと言われています。
また、「赤幟」は海人族である安曇族に関係あるともされています。
穂高神社の真東に位置しているので、穂高神社の拝殿的な役割を果たしていたとの説もあり、
御船の飾りつけは穂高神社の人形師が行っています。
八十七共有地
三川合流地点のこの付近一帯はしばしば氾濫に見舞われてきました。
犀川を挟んで堤防の建設や境界を巡って争いや訴訟が繰り返されてきました。
このため、享保年間には八十七人割りの共有地として、田地が流れた時には割り合うことにしました。
八十七共有地は大正の堤防建設で流路が安定するまで続き、農地改革によって個人所有となりました。
また、氾濫によって流路も変わり、対岸に明科側の耕地が取り残されてしまい、
塔ノ原の農民は馬や船で耕作しに渡ったという話が残っています。
三角島にはかっての村境の境界標識も残されています。現在でも犀川流路の西側に塔原や光地区の人々の所有地があります。
御宝田一帯の堤防建設は明治後期からはじまり大正3年(1914)頃完成しました。
これにより度重なる水害から免れ、安定した農地になっていきました。
わさび田
犀川の流路が穂高寄りに変わるまでは大王わさび農園付近まで塔原側のわさび田が広がっていましたが、
現在は規模が縮小され3町歩ほどになっています。
大王わさび農場の創始者の深沢氏は、明科の農民が所有するわさび農地の買収交渉の為に頻繁に犀川を渡渉して通ったそうです。
寒冷紗が普及するまでは、ニセアカシアをワサビ田の周囲に植えて日陰を作るなどして水温上昇を防いでいました。
安曇野のニセアカシアはこの辺りの木の種を採取して広がったといわれています。
「おひさま」ロケ地
NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」で何度か登場した清流です。ヒロイン陽子の幼少期は須藤家として、
初恋の人とのツーショット、結婚後は丸山家として訪れる場面が撮影されました。
安曇野を象徴する清冽な川です。