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安曇野の道祖神巡り

安曇野案内人倶楽部の新米ガイドとして何回か道祖神巡りのガイドをしたことがあります。 どんな説明をしながら案内しているのかまとめてみました。
道祖神巡りというと、穂高神社を起点にして穂高本郷の彩色道祖神を手始めに、等々力の集落内を案内することがほとんどです。
穂高神社 穂高神社はなんといっても安曇野の中心であり、海人族の安曇族が北九州から移住してきて安曇野を拓いたと言われており、 その祖神を祀っており、また、境内には塩の道が残されていて、北安曇郡にあった道祖神なども祀られているからです。
塩の道を歩きながら、安曇野の道祖神について概略を紹介する。

安曇野の道祖神は全部でおよそ580体あるといわれ、そのうち双体道祖神は約300体ほどで全国一の数を誇ってい。 その主な理由を次のように説明する。
その1は、安曇野の人々の信仰心が厚かったこと。それは重税・飢餓・疫病など三苦労から逃れ豊かになりたいという祈りだった。
その2は、拾ケ堰などの用水路を開削したことによって生産量が向上して豊かになり、腕の良い高遠の石工が集まった。
その3は、梓川で花崗岩など石が容易に入手できたこと。
これを塩の道を歩きながら解説。 客層と反応によっては、上州の艶っぽい道祖神や矢原堰、あるいは高遠の石工の話を紹介することもあります。
そして、神社では御祭神と絡めて安曇族や御船祭について話すが、安曇族と道祖神の関連性について 突っ込まれることも。
その後、バスにて本郷道祖神に移動する運びになります。

本郷道祖神 郷倉跡の彩色道祖神
年によって塗り方に良し悪しがあるこの彩色道祖神は天保4年(1833)の造立。本来ここにあったものでなく、2キロほど北の貝梅地区から盗まれてきたものだと紹介。 ここでは安曇野にだけある「道祖神盗み」の風習、いわゆる「道祖神の嫁入り」の話をする。嫁入りであるからには結納金が必要で、それが「帯代」であると。 道祖神盗みは江戸時代の若者のある種レクリエーションだったこと、裏面に帯代5両とか10両と刻んであるのは盗難予防であり、「嫁入り」としたのは信州人の理屈っぽさの片鱗だとして紹介すると、けっこう面白く聞いてもらえる。

ゲストに関心があり時間の余裕があるなら、隣にある二十三夜塔も解説する。

本郷道祖神 本郷の大黒天像・恵比寿像・彩色道祖神・
美しく彩色された握手像は安政5年(1858)の造立。
ここでは恵比寿神様を説明。古くは漁業の神様だが、農業や商業の神様として信仰されてきた。
3歳まで足が立たず、それを理由に船に乗せて捨てられ(漂着先が神戸の西宮)、また福耳にもかかわらず耳が悪いとされている。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の息子とされ、七福神の中では唯一国産?の神様。
因みに、大黒天・弁財天・毘沙門天など「天」のつくのはインドから来た神様で、福禄寿・寿老人・布袋は中国からやってきた。
この恵比寿像は大黒天像とともに慶応4年(1877)の造立で、両方とも何故か帯代15両とあるのが面白い。 大黒様は別の場所で説明するのでここでは省略して、バスに乗って等々力邸に向かう。

本陣等々力邸 本陣等々力邸
ここからは徒歩にて等々力の集落内を巡る。早くから開け豊かだった集落には狭いエリアに道祖神が集中している。
等々力家は、戦国時代にこの辺り一帯を治めていた武将の子孫の家。近くには等々力城跡もある。 関ヶ原の戦い・冬の陣にも出陣しているが、仕えていた小笠原氏が移封されると、武士をやめて帰農して大庄屋になった。
この辺りには松本藩の狩猟場があって殿様がよく狩りにきており、 等々力家は本陣として殿様の休憩所になっていた挌式のある建物。 桃山時代の様式の庭園や、長屋門、書院などは江戸中期に造られたもので安曇野市有形文化財。
門前にあるワサビ田でわさび栽培と、昭和初期まで日本海からこの辺りまで鮭が遡上していたことを紹介。

東光寺 東光寺
等々力氏が菩提寺として開基。この寺のシンボルは「仁王様の下駄」と呼ばれる大きな下駄。これを履くと、願い事がかなうといわれており、下駄を履いて写真を撮る人が多い。
建物は古色蒼然としているが、実はそんなに時代を経てはいない。仁王門に鎮座する仁王様のモデルが北の湖というのもその証左。
松本藩領にあった他の寺院と同様、激しい廃仏毀釈に晒されて打ち壊されたので、再建後に当時の横綱をモデルにしたとか。
境内には彩色の「子育て道祖神」や、戒壇巡りなどもあり中興への意欲が窺える寺院だ。
信州七福神の一つで大黒天の札所でもある。


東光寺前の石造文化財 東光寺の石造群
門前には道祖神の他に二十三夜塔、大黒天、青面金剛像が並んでいる。
青面金剛像の首が丸い石にすげ替えられているのは廃仏毀釈の傷跡と思われる。 ここでは松本藩における廃仏毀釈の激しかった理由を説明する。 明治維新の折に、@官軍側につくか幕府側につくか旗色を鮮明にするのが遅れ、 A会田騒動という農民一揆の際に天領の民を鉄砲で殺傷したこと、など新政府から睨まれようなことが相次いだため、 汚名挽回とばかりに、「神仏分離令」を拡大解釈して組織的に廃仏毀釈を行ったのではと。 天領だった明科に一時的に避難した仏像もあったという。
ただ、道祖神も対象とされた藩もあるが、安曇野では破壊されなかったようだ。

酒器像 辻の道祖神
ここは十字路で交通量も多いため、道祖神の概略を手短に紹介する。
道祖神は中国から伝来したと言われており、中国では道を守る神、旅の安全を守る神とされてきたが、 日本では、古くは集落の入口に祀って集落を厄災から守る賽の神だったが、時代を経るに従って 子孫繁栄、家内安全、五穀豊穣を祈願するようになった。
安曇野では道祖神と言えば握手像・酒器像に代表されるように双体像が50%以上を占めているのが特色で、 良縁や結婚願望の願いが込められている。
この酒器像、祝言像ともいわれるが文政2年(1819)に建立されたもの。

彩色道祖神 大勢至塔・握手像・青面金剛像
クレパス調にに彩色された握手像は天保12年(1841)の造立で、女神が裸足なのが珍しい。
大勢至塔は二十三夜講の守り本尊が勢至菩薩であることから二十三夜塔の代わりに建てられたと考えられる。

彩色道祖神 ここでは青面金剛像(寛延2年・1749)の説明をする。青面金剛像は庚申講の守本尊。道教では、人間の体内には三尸という三種類の悪い虫が棲み、 人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。 そのため、三尸が活動するとされる庚申(かのえさる)の日の夜は、眠ってはならないということで、 庚申の夜は庚申講の人々が集まって、徹夜で飲み食いしながら過ごすという風習があった。 また、庚申の日にできた子は盗人になると言われた。

生垣の石造群 生垣の石造文化財群
等々力集落のほぼ中心部にある石造文化財群。 お決まりの二十三夜塔と大黒天、菊花紋の道祖神、そして数多くの馬頭観音像群が、 安曇野の景観を特徴づけている生垣に埋め込むように並べられている。

等々力に限らず安曇野では昭和初年頃まで二軒に一軒は馬を飼っており、農作業や荷役に使役して家族同然に大事にしていた。 これらの馬を供養するために建てられたのが馬頭観音像。

ここにあるのは神殿に菊花をあしらった道祖神。菊の花は永遠の契り、 即ち結婚を象徴しており、集落の人々はこの道祖神に良縁や成婚の願いをかけてきた。

菊紋道祖神 ここでは豊科本村の菊花紋道祖神にまつわるエピソードを紹介する。
菊花紋のあまりの見事さゆえか、戦時中に官憲より削除するように命令された。菊は皇室の紋章であり、 道祖神に使うなど不敬だというのだ。
しかし、村人は、これは皇室の十六弁八重表菊でなく単十六花弁だし、 そもそも徳川様の世に建てたもの、菊紋が使用禁止になったのは明治4年の太政官布告からで、削り取れというのはあんまりだ・・・等々と抗弁。 しかし、官憲はどうしても削れといって聞かない。
村人は折れてこう言ったそうだ、「削るしかありませんか。でも、そんなに畏れ多いものを私どもが削り取る訳にはいきません。 どうぞ、貴方様がおやりください」と。さすがの官憲も、これには閉口して引きさがったという。

信州人の反骨精神と理屈っぽさを彷彿とさせて面白い。菊花紋道祖神は安曇野市の有形文化財第1号に指定されているのも道理!
次の機会にでも訪れてみてください、と結ぶ。

蔵前道祖神 蔵前の石造文化財群
大きな二十三夜塔の左右に大黒天の字碑と握手像が並ぶ。
道祖神は天保10年(1839)造立、男神と女神は指先まで克明に彫った手を肩に掛けあっている。
二十三夜塔は月を勢至菩薩の化身と考えて信仰の対象として「講」を組織した人々が供養のために建てた石塔。
勢至菩薩は願い事をかなえてくれる神様。二十三夜の晩には飲食をともにしながら夜明け近くの月の出を待つ月待ちの行事をした。
庚申講といい二十三夜講といい、信仰に飲食がともなうレクリエーションの性格が強かったようで、 男女の出会いの場でもあった。

本陣裏道祖神 大黒天像 本陣裏の石造文化財群
右から道祖神、大黒天像・二十三夜塔・青面金剛像・如意輪観音像。周辺には馬頭観音像や供養塔などが林立している。
道祖神は握手像で天保2年(1841)の造立。雲にでも乗っているように見えるのが面白い。

ここでは大黒天像について説明することにしている。
大黒天は天台宗の開祖・最澄が持ち帰った神で、台所の神、福徳を与える神として信仰されてきた。 これも講が組まれ(甲子講)て甲子の日に講仲間が集まって子の時(午前0時)まで起きていて、福の来ることを 大黒天に祈願した。 安曇野ではおかいこ様・養蚕の守り神とされてきた。

と、まあ、こんな内容でお客の反応や関心度合いを見ながら案内しています。 ここからは時間が許せば水田地帯へと誘って安曇野の田園風景を見てもらい、さらには穂高川河畔の早春賦の歌碑辺りを散策していただく。 あるいは、水色の時道祖神を経て大王わさび園をゴールにする場合もあります。

目下、鋭意修行中です。

2013年12月5日

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