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小平漁協のフォト日誌

割ケ岳城跡(信濃町)

割ケ岳城跡

日本三大夜桜の一つと言われる高田城の夜桜を見物に行く途中、かねてから気になっていた信濃町の割ケ岳城跡を訪れることにした。 山城歩きの季節もそろそろ終わりだ。山々が新緑の草木に覆われては城の遺構の観察が困難になってしまう。
割ケ岳城は信越国境の要衝の地にあって上杉勢と武田勢の激しい争奪戦の舞台となった山城として知られる。
城址のある山はすぐに分かったものの、攻め口が見つからないので麓にある農家に飛び込んで尋ねたところ そこのご主人自ら案内していただけることになった。
福寿草が群生する大手口から入山する。 大手口はすり鉢の底のようになって前方の斜面が立ちふさがっている。 左手には物資の運搬にも使用されたと思われる竪掘りが上方に伸びている。

割ケ岳城跡のカモシカ

ご主人に案内していただいたことが幸いしたのか、山頂の本郭から我々を出迎えてくれたのは2頭のカモシカ。 カメラを向けたもののオートフォーカスの為、藪に邪魔されてピントが合わずにピンボケ写真になってしまった。 咄嗟の判断をできなかったことを後悔。

なんでもご主人のご先祖は戦国時代に松代辺りから移住してきたとかで城の周辺には松代と同じ地名の所があるとか。 戦国時代のご先祖は交替で城の見張りを務めていたのではないかと20代目のご当主は推測しておられるが、 戦国の時代のこととて身の安全の為に古文書の類は残念ながらほとんど焼き捨てられたようだという。



野尻湖と妙高山
本郭は幾つかの郭によって防備され、雨水を貯めた跡や狼煙台跡の遺構が残っており、 搦め手側の尾根には定番の深い堀切が3条切られている。 これまでに訪れた北信の中でも比較的良好な状態を保っている山城だ。 立て篭もるだけの守り一辺倒の山城ではないような印象を受けた。
ご主人が本郭から髻山が見えると教えてくれた。狼煙によってここ割ケ岳城と連絡を取り合っていたのだという。 髻山城は第4川中島合戦の折に上杉勢撤退に当たって重要な役割を果たした山城だ。
本郭からは謙信の参謀・宇佐美定行が上杉政景とともに身を沈めたとされる野尻湖が眺められる。 その背後の残雪の妙高山の雄姿に暫し見とれた。

今回は親切な地元の方(後で町議会議長さんと知る)とカモシカに出会えたことが何より僥倖だった。

2007.4.14

<現地案内看板>

割ケ岳は、柴津の城山ともいわれ、標高767.8m、ふもと集落からは120mほど登る険しい山です。斑尾火山の寄生火山で、輝石安山岩でできています。
北には野尻湖から信越国境を望み、東に豊田から飯山、西に柏原、南には三水、牟礼へとつながる交通の要所にあたります。 頂上には、本丸などがあった7つの曲輪と堀があります。 城へ登る大手道もかなり残されていて、信濃町では、最も良く残された城跡です。
もとは柴津為信という在地領主の城であったといわれていますが、戦国時代には信越の前線にあって、重要な軍事拠点となっていたようです。永禄4年(1561)5月には、武田軍に攻め落とされたという記録があり、すぐ後の9月には川中島八幡原の戦いがおこっています。 同7年には、野尻城の取り合いがありました。
このように、割ケ岳城跡は典型的な中世の山城であり、上杉、武田両軍の戦いのあとを残す重要な史跡です。

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