山城や史跡巡りをしていると小さな祠や墓碑に出会うことが多い。
無宗教の私もいつの間にかそれらに手をあわせるようになってしまった。
ポケットには賽銭さえ準備していたりする。
連休2日目、村上義清が葛尾城を追われてから再起を期して立て籠もったとされる塩田城を目指す。
古いカーナビに頼っているので新しい道ではなく上田原古戦場を通る旧街道に入り込んでしまう。
そこで発見したのが雨宮刑部の墓。昨日訪れた唐崎城の主だ。
上田原の戦いで村上方として出陣し、ここで戦死したとされる。
近くには義清の身代わりになって討死したという屋代源吾の墓もあるとか。昨日訪れた屋代城城主の長子だとか。
昨日の今日の偶然に驚き、墓前に手を合わせ塩田城に向かう。
「塩田城跡」の大きな石碑を右に眺めながら城域に入る。
馬蹄形の尾根に囲まれた斜面に大手道が真っ直ぐに上に伸びている。
左右には屋敷跡と思われる広い削平地が何段も築かれていて、その規模の大きさに驚かされ
長野県下最大の中世城跡というのも頷ける。政庁跡とされる段郭には椎茸栽培のホダ木が杉木立の中にヒッソリと並べられていた。
何故、此処だけが椎茸栽培場になっているのか不思議ではある。
真っ直ぐの大手道を10分ほども登ると石垣造りの桝形に突き当たる。
虎の口と言われる場所で、この辺りから漸く山城の様相を呈してくる。
曲輪には井戸の跡があったので中を覗き込んでみた。底が見えない不気味な深さだ。
虎の口からは右手斜面に付けられた細い道を登る。
頭上に覆いかぶさるような岩尾根があって、砦があったに違いないと想像しながら進む。
尾根の裏側にはどんな景色が広がっているのか、
足場さえ良ければ登って確認するのだが、残雪のあるガレ場のこととて諦める。
ほどなく北条国時の墓に着く。ここが塩田城の最高部で本郭のあった場所とされる。
背後を尾根筋にある砦群によって守られている。
弘法山に登ることを試みたが4〜5本の樹木が根こそぎ倒されている崩落箇所に突き当たって断念した。
下山後、「信州の鎌倉」とも呼ばれる塩田平の古刹巡りを楽しんだ。