昨夜は思わぬ夜更かしをしたために出遅れたので、遠出は諦めてかねてから目を付けていた千曲市の屋代城跡を訪れた。
戦国時代にあって転々と主をかえて幕末まで存続したという屋代氏に興味があったからだ。
一重山の先端にある成田山不動尊の石段から登りはじめる。石段の傍らに早々と咲いた福寿草の花を一輪見つけた。
朽ちかかった看板に「日本百景」に選ばれた展望の標識があると表示されていて期待が高まる。
鐘楼、そして御岳神社を過ぎて、屋代神社のピークに至る。この間僅か5〜6分。
そこが本郭かと思って拍子抜けしたが、神社の裏手から一旦鞍部に下りて登り返す道が続いている。
鞍部は削平されたのかどうか不明だがかなり広い平地になっていて、なんらかの建物があったことを想像させる。
ここから登るにつれて山城の遺構が次々と眼前に現れてくる。幾つもの堀切と段郭を経ておよそ10分で本郭に到達した。
南西方面が急崖になっていて石積みの土留めが施されている。眼下にしなの鉄道の屋代駅が見える。
「日本百景」の標識は何処にも見当たらなかったが、晴れていれば、
さもあらんという眺望が眼前に広がっていることを十分想像させる場所ではある。
休憩時間を入れても往復で1時間足らず。物足りなさに唐崎城跡を訪ねることにした。
千曲市指定史跡 屋代城跡
屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城である。
尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や竪堀で遮断されているが、
土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の
腰曲輪(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
この屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、
海野・井上氏と抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。
天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点狐落城・葛尾城が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。
この戦乱の中で屋代氏は武田方に転進するとともに屋代城を去って、新たに与えられた荒砥状を拠点とすることとなり、
屋代城は廃城となったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と
次々に主人を変えた典型的な戦国武将といえる。
こうした地方武将簿居城であった屋代城は、戦国末期の改造の手が加えられてはいない。また、
屋代城の特徴である雛壇状の腰曲輪は、信濃の城郭の一つの基準型であり、重要な山城である。