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安曇野 小倉城の謎

城攻めの前に考えてみました。

小倉城跡を望む

小倉城は角蔵山の南端の尾根が突き出た標高970mの急崖上に築かれた山城で、南東は松本平を一望できるが、北の展望は得られない。 本郭、二の郭、三の郭からなる梯郭式で、北側の尾根とは深さ4mの掘切で断ち切り南側に帯郭を巡らす。
大手は鳴沢を挟んで創建時の浄心寺跡の向かい側にある穴不動尊の急斜面、搦手は鳴沢のさらに奥の兎沢から登る。 兎沢までの間に陣ヶ原・屋敷沢の地名が残っており、防御施設があったことを覗わせる。






八幡宮

規模的には在地土豪の詰め城のレベルだが、八幡宮を頂点とする鳴沢の扇状地に建設された里屋敷を含めたエリアを城域と考えるべきだろう。


中信平の水路工事の際に、集落の東側に深さ2m・巾2.5m、長さ200mの堀跡が発見され、集落全体の防御施設だったと考えられている。




千国道の辻

山城の出入口と水源を押さえる位置に八幡宮を祀り、そこから地蔵堂まで直線道路を開け、ほぼ並行して4本の立道を通し、 南北には千国道を取り込みながら辻を造らないようにT字路にして敵の侵入を妨げている。












里屋敷跡

参道沿いに西屋敷・あら屋敷・東屋敷の地名が残っており、城主の館があったと思われる。

屋敷添の田畑が今に残るのも中世の集落の面影を伝えているようで興味深い。










小倉城虎口

誰が築いたのか?
「信府統記」は浄心寺にある小笠原但馬守貞政の位牌から、天正13年に死去した貞政が城主だったと推定している。 また、貞政は天正6年に淨心寺を開基したとされる。
しかし、天正6年当時は、小笠原氏は武田氏によってこの地を追われており、 この時期に小笠原氏が淨心寺と山城を築いたとするには無理がある。
小笠原氏の復帰は天正10年を待たねばならない。






八幡宮への道

小笠原家の天文年間の分限帳には、小倉山の城主として秋山与一の名前があり、以前の領主と考えられるが、築城時期は定かではない。
小倉には西牧氏に関わる地名が多く残っており、集落内にも「ぎょうぶかいと」とあるのは「西牧刑部左衛門尉」の屋敷跡と考えられている。
西牧氏が北小倉にも牧場を経営して小藏郷が誕生した頃に、北の固めとして里屋敷とともに築いたと考えるのが妥当ではなかろうか。





野武士

小笠原但馬守貞政は誰か?
小笠原但馬守貞政を小笠原貞慶の嫡子貞政(後の秀政)とする説もあるが秀政が死去したのはずっと後の大阪夏の陣であり、 時間的に整合しない。
また、小笠原貞正なる武将が安曇郡を支配していたと推測される文書も残っているが、貞政と同一人物かは不明。 同一人物だとするなら、小倉城は安曇郡支配の拠点だったことになる。
しかし、小倉城の位置や規模を考慮すると、未だ戦塵消えやらぬ状況の中で安曇郡支配の拠点としてはたして相応しいのか疑問がある。 同一人物ではない可能性が高い。
それでは、小笠原但馬守貞政とはいったい誰なのか?この地方を支配した小笠原氏・西牧氏・二木氏の謀略を交えた攻防の歴史の中に 答がありそう。

白山社

激動の歴史のなかで培われた絆
戦国時代、北小倉の集落の支配層は西牧氏系から小笠原氏系へ、そして武田氏の侵攻によって再び西牧氏系へ、さらに武田氏の滅亡によって小笠原氏系へと交替している。そして兵農分離と松本への武士集住、古河への移封と続き、集落内での力関係はそのたびに変化したものと思われ、変化に対応する上でも地縁血縁による結び付きが他の地域よりも重要視され、同族や同姓の絆を固めるためにも祀り事が盛んに営まれて受け継がれてきたと推測される。





向かいと道祖神

北小倉は狭いエリアにも関わらず上村・中村・下村とそれぞれが道祖神を祀り、同姓で祀る稲荷社や三峰社が多いのは、その証左と思われる。また、八幡社と白山社の二つの鎮守が存在し、白山社については中村地区のみで祀っていることは、より古い時代における支配層の交替を示唆しているのではないかと思われる。
谷間の扇状地の集落に脈々と受け継がれてきた祭祀に歴史のダイナミズムを見る思いがする。

(参考資料:三郷村誌T・U第4巻・梓川村誌)


2013年6月18日

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