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塔原小丸山城跡の謎

塔原小丸山城跡 「塔原小丸山城跡」にこだわり続けている。
法音寺周辺が「塔原小丸山城跡」であれば、自分が第一発見者では?と期待して、調べてみると、丸山楽雲氏が平成21年刊行の「信濃古武士」の中で法音寺こそ「塔原小丸山城跡」だとする記述に出会った。第一発見者たる夢は潰えた。
丸山楽雲氏によると、「塔原小丸山城」の城主は桔梗ヶ原の合戦に小笠原方として武田勢と戦って負傷した丸山将監盛古だとし、墓地にある宝篋印塔は盛古の父・塔原盛綱だとしている。当時既に鎌倉時代に入部した海野系塔原氏は衰退して仁科丸山系の塔原氏が塔ノ原城を支配しており、丸山将監盛古の「塔原小丸山城」はその城域内にあったとする。
武田氏の進出によって、信玄の五男仁科信盛の安曇・筑摩両郡の支配を支援するために、塔ノ原城に上州羽尾から海野三河守が送り込まれて塔原氏を名乗った。ここに海野氏系塔原氏と仁科丸山系の塔原氏が併存することになるが、武田氏の安曇野進出で自落したのは海野系塔原氏だとする。

また時代が下って、小笠原貞慶の復帰で謀殺されたのは海野系の塔原三河守だとし、仁科丸山系の塔原氏は小笠原氏に臣従し、移封に同行したとしている。
武田氏進出で自落したのは東信から進出してきた海野系塔原氏で、小笠原氏に謀殺され滅ぼされた塔原氏は武田氏が継がせた海野三河守であって、仁科丸山系の塔原氏は永らえたというのは牽強付会のような気がしないでもない。

平成6年に旧・明科町教育委員会が発行した埋蔵文化財第4集・明科町遺跡詳細分布調査報告書には「法音寺館」とあり、「光氏の菩提寺、四賀村法音寺から光氏の川手進出に伴い移された」とある。
光氏は鎌倉時代に東信から進出してきた海野氏の一族で兄弟それぞれが、会田、塔原、田沢、刈谷原、光に城を築いてこの地を支配したとされる。これは武田信玄の信州侵攻以前のことだから、「塔原小丸山城」の以前に光氏が開基した法音寺が存在していたことになる。
光氏の進出によって戦時は光城の出城として機能した「法音寺館」が、光氏の勢力後退とともに仁科系丸山氏に奪われたと考えるべきか?
 武田侵攻時に「塔原小丸山城」が存在していたとすると、それは「法音寺館」のことなのか?では、その城主または館主は誰なのか?その主は光氏や塔原氏とはどんな関係なのか?
 疑問は深まるばかりだが、それでも法音寺周辺を探索するほどに、城跡または館跡であることを確信せざるを得ない。これが戦国惚け?

3月20日

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