安曇野の東山の尾根筋には南に光城、北に塔ノ原城があるが、その間の斜面から尾根筋に躍り出れば、
両城に背後から攻めかけることができるはずで、その中間地点の長峰山、あるいはその山麓付近に出城が築かれていても不思議ではない。
その痕跡を求めて長峰山の西斜面を歩いたり眺めたりしてきた。竪堀や郭らしい形状を見つけては想像を逞しくしてきた。
あるとき自宅付近を流れる沢に「屋敷沢」との標識を見つけ、小躍りしたことがあったが、良く見たら「尾敷沢」とあって、「戦国惚け極まれり」と苦笑いしたこともあった。
そうしたなかで、以前から気になっていた城跡と思われる場所を探索してみた。
マツクイムシ被害の拡大防止のために山の斜面が広範囲に伐採されたことにより、斜面から突出したその丘はいっそう際立って見えるようになった。
長峰山から落ちてくる支脈の西面にひときわ高く盛り上がっている丘にある法音寺がそれだ。
「豊科町誌」の「鳥羽館跡」で紹介されている史料「聞伝書」中に、「丸山将監は元塔原の小丸山城主」とあり、塔原に塔ノ原城の他にも城があったことを示唆している。
しかし、町誌では「日岐の丸山の城主の誤伝」とサラッと否定している。そして何故か、明科町誌の城館跡一覧にも塔原小丸山城の名は無い。
しかし、法音寺が城跡ということになれば、そこが塔原小丸山城跡である可能性は高い。
無住となった法音寺の庵は竹藪の中にひっそりと朽ちかけていた。
法音寺を頂点として幾つもの郭が画され、帯郭や竪堀、土塁や虎口と思われる遺構もある。
背後の山には削平された平場を思わせるような部分も見える。
裏手には遠目には切岸と錯覚した水道施設があり、その脇の打ち捨てられたような墓地に累代の住職の墓や苔むした石仏が並んでいる。
城主の供養塔なのだろうか、宝篋印塔もある。
城跡からは安曇野を一望でき、犀川筋の見張りにはもってこいの場所。
また「屋敷沢」と誤読した尾敷沢は南の、そして参道沿いにある尻無沢は北の防御ラインであることに気がついた。
近辺には住居もあるので改変はあると思われるが、山城の遺構だと確信した。
地権者が許すなら城跡の縄張り図を作成してみたいものだ。