信州ふるさとづくり応援団安曇野支部が主催する「第16回ふるさとウオッチング」で初のガイド役。
今回のコースは穂高川と高瀬川が合流する狐島地区。二つの河川の氾濫原に立地し、
昔から水害の歴史を繰り返してきました。
「狐島」の地名の由来には三つの説があります。
高瀬川と穂高川に挟まれた島で古厩氏・穂高氏・等々力氏・渋田見氏など豪族の中世の監視所(狐)があったからという説。
また、伝説の八面大王の手下の狐たちが逃れてきて打ち取られた場所だからという説。
他に、氾濫原が藪に覆われていたので野狐が多かったからという説も。
白狐神社
狐島の産土神社で旧村社、創建は永禄元年(1558)と伝わっています。
川中島の合戦の頃でまさに戦国時代の創建ということで、地元の豪族の監視所が置かれた時代と符合します。
地元の豪族が創建に関わっていたことは容易に想像されるところです。
白狐神社と名付けられているのは、坂上田村麻呂に攻められた八面大王が白狐に化けて
ここまで逃げ延びて捕まったとの伝説にもとづいていると思われます。
八面大王の塚
狐島の地名の由来となったとされる塚です。
地元では八面大王の胴が埋められていると伝わっています。
八面大王の手下だった野狐が打ち取られて、哀れに思った地
元の人々が埋葬して祀ったという説もあります。
洪水で流失した祠を大正年間に再建したものです。
信州サーモンの養殖池
この養殖場は、かってはワサビ田でしたが、昭和34年の伊勢湾台風の大洪水で流失したため、養魚場として再建したものです。
ここでは主に信州サーモンを養殖しています。
信州サーモンはニジマスのメスとブラウントラウトのオスを交配して、
双方の良いところを受け継いだ一代限りの魚です。
信州サーモンは病気に弱いために、綺麗な水が大量に必要なので、安曇野の地下水の40%は養魚用となっています。
旧常盤橋跡・渡船場跡
狐島と穂高地区を結んだ旧常盤橋跡。明治15年(1882)に橋が完成す
るまでは渡船場がありました。対岸の狐小路はかっては歓楽街として賑わいを見せていました。
安曇節にもその様子が唄われています。
小路芸者は猟師にゃ負けぬ時と場合で臀鉄砲
狸オヤジも小路を通りゃ小路狐に騙される
狐島のワサビ
文政2年(1819) 狐島の高山五平が鹿島槍ヶ岳山麓から土産として山
葵を持ち帰って植えたのが始まりと伝えられています。
文久元年(1861) 原木戸の高橋太四郎が穂高川沿岸の地下水湧出地へ約50坪の山葵畑を造成し、
明治初年に東穂高村方面
に出荷販売したのがワサビ生産の嚆矢とされます。
明治40年頃から販路を拡大、需要が激増しました。
狐島は謂わば安曇野のワサビの発祥の地です。
豊かな狐島
狐島は有史以前からの度重なる水害にも関わらず、安曇野有数の肥沃の土地に変貌させ豊かな農村地帯を築いてきました。
点在する屋敷林や本棟造り、土蔵などの見事さは、それを物語っています。
屋敷林の小道
季節ごとの彩り豊かな閑静な屋敷林の間の小道です。
防風・隙間風対策、建材・燃料調達といった屋敷林の役割が後退
した「ニューウエーブの屋敷林」といえます。
上木戸石造文化財群
安曇野ではお馴染みの石造文化財が勢揃い。
左から 馬頭観音(年代不詳)・念仏供養塔(文化八年)・
二十三夜塔(文化八年)・青面金剛像(安政元年)、
双体道祖神(文政五年)・ 大黒天象(文政元年)
安曇野高橋節郎記念美術館
現代工芸美術家協会の指導者として現代性に富む漆芸創作運動を進め、
76年(昭和51)からは東京芸術大学教授として後進の指導にあたりました。
高橋節郎の生家に平成15年(2003) 開館。
コレクションは高橋節郎の屏風、パネルをはじめとして、乾漆立体作品、漆絵版画、漆クラフト作品など多様な漆芸作品や、
墨彩画、書などの作品。漆芸作品の下図、デザイン画、高橋節郎幼少年期の絵やノートなども収蔵しています。
高橋節郎生家
茅葺き屋根の母屋は、江戸中期の創建と推定され、分家
した際に本家から移築されたものです。
母家と各土蔵は、この地方の農家の昔のたたずまいに触れることが
できる建物群です。活用しながら今後も永くその姿を伝え
るべく国の登録有形文化財になっています。
狐島観音堂
元禄11年狐島中木戸の守堂として創建。
明治4年松本藩による廃仏毀釈のため廃堂となり、
その後、研成学校の支校・狐島小学校として利用されました。
大正2年に旧阿弥陀堂を新しく観音堂として再建されました。
かっては堂守も居り、地区住民の信仰の中心として守られてきました。
墓地には高橋節郎の墓もあります。
旧高橋家住宅
明治8年建築の約800坪の屋敷林に囲まれた瓦葺き総二階の
母屋を中心に 表土蔵・裏土蔵・納屋・蚕室・門・塀などがある貴重な古民家です。
とくに母屋と蚕室を渡り廊下で連結するなど珍しい作りとなっています。
亀の鏝絵
土蔵の妻部の「牛鼻」(棟木の木口)の位置にある鏝絵は、左
官職人が絵筆のかわりに鏝を使い、短時間のうちに漆喰土
を塗り重ねて創り上げます。
左官職人の腕の見せどころとさ
れています。