天竜川から大島城本郭を眺める
阿木燿子女史の講演会に行きたいというご近所の奥様方を乗せて駒ヶ根市へ。
もちろん快くアッシー君を引き受けたのは南信方面の戦国山城を訪ねたいとの下心あってのこと。
車の中でも賑やかな彼女らを会場近くのレストランに残して向かったのは松川町の大島城。
天竜川の激流に削られた崖端に武田流の築城術の粋を凝らして築きあげた城だ。
二重三日月堀
まずは武田流の特徴とされる丸馬出の二重の三日月堀の見事さに感嘆する。
鉄砲による戦術転換が進むなかで威力を発揮する防御施設だ。
丸馬出の内部は民家の敷地なので入れないが、三の郭とは土橋で繋がっているのが見える。
本郭への路
城内には左側の入口から入る。公園化の際の駐車場建設や、
本郭まで続く取付け通路によって遺構が改変されているのが残念だが、
残存する地形から往時の防御思想を想像するのも楽しい。
城跡北西部の馬出やこれに連続する土塁は攻撃的防御を企図した施設と思われる。
出丸と三郭を隔てる堀
専守防衛を企図した平山城ならではの深さと規模で、箕輪城跡や松山城跡の堀を思い起こさせるものがある。
本郭の大堀切
二郭とは大堀切によって分断されていて、他の郭が落とされて孤立しても戦い抜けるように守りを固めている。
本郭跡の広場ではお年寄りたちがマレットゴルフに興じていた。因みにスタート地点は櫓台跡だった。
本郭から眺める天竜川
このように幾重にも守りを固めた堅城だったが、織田軍の侵攻の前には戦わずして自落している。
退勢著しく後詰めも期待できない武田勢にあっては、如何なる堅城といえど持ち堪えるべくもなかったのだろう。
平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に分知しました。
それは片切兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、在名をもって大島八郎宗綱を名乗ったのが大島氏のはじめです。
大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世を通じてこの一帯を領有・統治し、大島城。北の城・沼の城などを築きました。
南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)一挙に伊奈軍に侵入し、
ここを手中にした晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
元亀2年(1571)、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ登るための拠点とするため、
伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行いました。この時、
下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に動員した事を記す武田氏の朱印状が残っています。現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による馬出や三日月堀、三つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような空壕が当時のままに残されています。
信玄亡き後の勝頼の代、天正10年(1582)織田氏が伊那郡に侵入した時、
大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な武将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡したことが「信長記」に記されています。
城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米などが発見され、
井戸跡には落城の際御姫様が金の鶏を抱いて身を投げたという悲しい伝説も伝えられています。