梅雨の合間に、かねてから気になっていた大町市の西山城跡を訪れた。
戦国期には大町を拠点にして安曇野方面にも勢力を伸ばしていた仁科氏系の山城だ。
武田信玄と小笠原長時との戦いのなかで一転して武田方に従った仁科氏だったが
信玄によって名跡を簒奪され、信玄の五男の盛信が継いでこの地を支配する。
このあたりの手口は信玄ばかりでなく北條氏政も使った巧妙な民心掌握術だ。
西山城はこの時に改修されたという。
熊なんぞに出会わないように鈴を鳴らしながら攻めのぼることにした。
登山道こそ整備されているが左右は既に草藪に覆われ始めていて、
二の郭と三の郭の周囲にあるという段郭や帯郭を確認することはできなかった。
しかし、二の郭と三の郭のそれぞれの背後にある堀切は圧巻。
とくに二の郭背後の堀切は二重堀切となっており、背後に続く尾根から完全に断ち切っていて、
この二の郭が改修前の本郭だったという説も肯ける。
二の郭から本郭までは踏みならされた快適な尾根道で、途中に浅い堀切と小さな桝形状の地形が残るだけ。
時折藪の中にギンリョウソウの白い不思議な姿が見える。
本郭跡の周囲も草木が生い茂っていたが、何段かの郭状の地形を確認することができた。
本郭は二の郭と三の郭からは距離もあり、ほぼ独立した形で築城されたという印象が強い。
これも、武田方がこの地を支配してから西山城を改修した証拠と思われる。
本郭跡からは木々に遮られて展望は得られなかったが、木立の間から仁科氏の本拠地だった
大町市街を臨むことができた。
多少の危険や毒虫・毒蛇を厭わなければ別だが、やはりこの時期の山城探訪は難しく、面白みに欠けるものがある。
現在地の上方、大洞山から東に延びる尾根に築かれていた中世の山城が西山城で城構えの跡がよく残り、昔の様子を偲ぶことができる。
百曲がりを登りつめた尾根の先が三の曲輪、そこから200mほど西にいったところのピークが二の曲輪、深い空壕をこえてさらに北西にむかって800mほど登ったところの標高870mの峰が城の中心である一の曲輪である。三つの曲輪はそれぞれがさらに小さな曲輪や、細長く取り巻くかたちの帯曲輪、空壕などで固めている壮大堅固、仁科氏の直領であった大町地方の南の備えとしてまことにふさわしい。
子の城の城主には仁科氏配下の矢口氏であり、室町時代の記録に備後守知光、同則知などの名をとどめる。西山集落にはその館跡や菩提寺であった松庵寺のあと、矢口氏の墓と伝える五輪塔などもある。