この森城は仁科氏の拠城であり木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城である。戦国時代武田信玄が当城主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として送り込み上杉謙信に対抗するため城の大修築をほどこした戦国時代には珍しいほどのの大規模の城であり遠く日本海糸魚川近くまでを支配した拠点である。
仁科氏は900年ともいわれる長い間当地を支配した豪族であり平安期の古くから京都の朝廷とのつながりをもちその力を背景として栄え又塩の道と言われる日本海との移送税の収入が財力となって小豪族ながら他の豪族にみられない中央文化を移入し仁科氏の古代文化を大町市や周辺に数多く残している。
国宝1、重要文化財11、古い由緒を物語る天然記念物1、県天然記念物2、県宝3、県史跡1、県無形文化財1、その他数多い文化遺産はかっての仁科氏のかっての繁栄をものがたるものであります。