山城の核心部までいとも簡単に到達してしまって拍子抜けすることがある。
一族の命運を賭けて持てる権力と知恵の限りを尽くして築きあげた山城。
しかし時を経て、建設機械の圧倒的な力で林道を切り開くと、
その山城の防御施設や配置がむき出しに曝されてしまうのだ。
攻城は不可能と信じていた方面からの想定外の攻撃によってもろくも落城してしまうのに似ている。
虚空蔵山の中腹に築かれた中の陣城もそんな山城の一つだ。
林道から取り付けられた山道のおかげで、右側斜面から掘り下げられた数本の竪堀や水の手郭、
石積で固められた帯郭などの遺構を苦労することもなく見ることができる。
この道は帯郭を横断的に繋ぐことで造成したもののようで、
中の陣城本郭までいとも簡単に到達できるようになった。
平坦な山道の突き当たりにさりげなく盛り上がっている主郭背後の土塁は自然地形と見紛うばかりで、
案内板がなければ尾根に続く細道を登ってしまうところだ。
小笠原系の山城は大堀切で尾根と切り離されているのが通例だが、この城はなぜか土橋で接続されている。
さらに疑問なのは、ここに至るまでに見られた帯郭がはたして中の陣城の守りなのかどうか、
むしろ秋吉城の防御施設と考えるべきではないのか。
中の陣城の背後の守りと考えるには無理があるような・・・・
土塁をよじ登って越えると削平された主郭。
谷間に広がる会田盆地を見渡せ、常念岳など北アルプスも展望できる。
本郭は周囲を石積で固められ、前方には数段の段郭が見える。
中の陣城の本郭に立ってみた印象では、
山頂の峯の城と東側の秋吉城の前衛としての独立した砦のようだ。
一般的には秋吉城のほうが支城とされているが、帯郭の位置といい土橋といい、むしろ逆ではないかと思えてならない。
帯郭に並行して取り付けられた山道の存在が私を混乱させているのかもしれない。
次回は隣の秋吉城を攻めてみよう。
この城は、鎌倉時代、会田海野氏による築城に始まるといわれる。
会田氏は、天文22年(1553)4月、武田勢の火攻めにより、降伏して武田氏の家臣となった。
天正10年(1582)、小笠原勢の攻撃を受けてこの城が落城し、最後は矢久のいちご城に逃れ、敗れたといわれる。
現存する遺構は、小笠原系の城主により会田氏滅亡後、天正10年から18年頃に再構築されたものと推察され、
松本の林城、山家城などと共通性がある。
この城は、虚空蔵山にある峯の城・秋吉砦・天狗岩砦・うつつ城などの中心となり、規模も大きく、戦国時代末期の山城遺構として価値が高い。
東南西面は急傾斜で登れず、北面には深い堀切が設けられて要害になっている。
主郭の周りは平石積の石垣を用いた土塁を巡らして守り、南西石垣の下には数段の郭が続く。
今でも、主郭部から炭化米が出る。
平成6年1月 四賀村教育委員会