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戦国の安曇野 W 金龍寺・真々部館跡

真々部城跡に隣接する金龍寺 武田信玄によって対上杉方への前進基地として館を中心に八寺七小路が整備され、安曇野南部の支配拠点ともなった真々部。 その真々部館に隣接して金龍寺がある。
寺の屋根には仁科系の家紋である蝶の紋が掲げられ、墓地にも蝶の紋が多い。
真々部は疑いもなく仁科系の一族の地であることの証だ。








謎の説明看板 境内にある3基の自然石の墓の傍に、朽ちかけて打ち捨てられたかような看板があった。 寺の中興の開基の長雄とその内室、そして嫡子の墓だという。













謎の説明看板

そして、内室は武田信玄の息女であると。
さほど有力とも思われない地方豪族のもとに信玄の娘が嫁いだなどと、 にわかには信じ難いが強く興味をそそられることではある。










乗護山金龍寺の歴史

さらに山門には金龍寺の歴史を墨書した説明看板が掲げられていて、 こちらもいつ剥がれ落ちて判読不能になっても不思議でないような状態なので、あえて書写することにした。
機会があったらご住職に色々とお伺いしてみたいものだ。




2012年4月1日






乗護山金龍寺の歴史 (金龍寺山門の説明板)

禅臨済宗妙心寺派準別格地   信濃国第14番川西第16番観音霊場札所

真々部城位置図

當寺は750余年前、後鳥羽上皇が建立された寺です。
上皇は篤く観音様をご信仰されて、熊野三山那智山第一番札所等へ実に31回も参詣された方です。たまたま信濃の武士仁科盛遠(真々部尾張守長雄公の先祖)も参詣し、偶然上皇とめぐりあい、鎌倉の御家人ですが、上皇に見込まれて、西面の武士となり(後に承久の乱に上皇に味方)その因縁で上皇は信州地へ行幸され、その折に、自らの御念誦仏を御本尊(聖観音・行基作国宝級)として建立されたのです。
其の後、建武年中、逸休和尚が住山し鎌倉の禅風を振興し、諸堂を造営し開山に晋明大済國師を勧請し自ら二世となったのです。だから當山の開山は京都大本山相國寺及金閣寺の創建開山と同一です。
その後、潭州−大有−一巷−周谷と住職が続き、一巷和尚は塔中 眞珠院を創建した當寺の中興です。この頃は戦国時代で、先述の仁科盛遠の子孫の盛信は、この地方まで勢力をのばし、その子真々部尾張守長雄公(改姓)に至り、完全にこの地方を制圧し、先祖の盛遠が忠勤を尽くした後鳥羽上皇の開基の寺である金龍寺を菩提寺(香華之院)とし伽藍を整備し当山も隆盛となります。初め仁科氏(長雄公も)は小笠原氏(室仁科氏)と共に武田氏と戦いますが、信玄の謀計にかかり縁組(長雄公之室は信玄の女)して武田氏の味方となり、安曇平は武田氏の手中に入ると共に仁科氏は亡び、武田氏もやがて滅亡するや、真々部公も金龍寺も衰運を辿るのです。長雄公入寂(天正7年)後、その法名の頭に、その徳を尊崇して眞珠院殿と名付け、天正10年、木曽義昌(室信玄之女)より禁制付与(金龍寺宛)されますが、二寺を一寺とし眞珠院と称し、やがて周谷和尚入寂後は鎌倉の禅は絶法します。
其の後、慶安年中、法岩和尚来って眞珠院に住山し7年の辛苦の歳月を消して再興して、天桂和尚(信玄の伯父)を再法祖とし、真々部尾張守を中興開基とし京都妙心寺派の禅風を起し、後徳川将軍家より除地を寄せられ、檀家も120余戸となります。天保7年に古来の由緒があるので、久我経豊内大臣より御館入の證文附与され、慶応元年松本城主松平丹波守禁制付与、この間、徳川時代は天桂玄長より法岩―大元―提山―寂外―正堂―古菱・至堂・佼嶺・證山・鶴仙・蜀山と妙心の禅法が相続され、明治維新となるや、旧藩主戸田光則は保身の急なるあまり、新政府に迎合せんとし、神仏分離令を廃仏毀釈と曲解し、明治5年官命を以って眞珠院を廃寺としました。然し正しい流れを反対の方向に変更しようとしても、やがて元の流れに還る。正反合の心理に勝つ事不能、時の住職蜀山和尚の不惜身命の努力と、総代及檀家の愛山御法の信仰心が結実し、明治11年内務省より290余年前の金龍寺再興許可(長野県の許可第一号)せられ、妙心末となり、蜀山―租傳―茂林―秀道(現住)に至るのであります。
欽て古傳を稽ふるに嘉禎の創建より現代に至る迄、一貫して中心なるもの、それは聖観音菩薩の信仰であります。

たづねいり 志らぬ ままべの道のべに 志んじゅの光り あらたなりける


昭和52丁巳年4月吉日 當山21世 秀道謹誌

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