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松本 伊深城跡

伊深城跡虎口 安曇野にはおよそ似つかわしくないラブホテル前の交差点から大口沢を経て143号線を松本方面に進み、 六助池で左折して進むと、松本トンネルからの道と合流する。
その交差点の正面に見える山が伊深城山だ。
府中(松本)から大口沢を経て安曇野方面へ、苅谷原峠を経て会田・善光寺方面へ、三才山峠を越えて上田方面へ向かう交通の要衝であり、 府中の北の守りとして小笠原氏の同族・赤沢氏が守備していた。







伊深城本郭の腰郭

麓にある若宮八幡宮から攻め上がる。井深氏に代わって城主となった後庁氏が勧進したと伝わる。 後庁氏も隣接する稲倉城の赤沢氏に城を奪われてしまう。
その赤沢氏は武田勢の侵攻時にはいち早く武田氏に服属して後庁氏の守る洞城を攻め落している。 そのあまりの素早さに洞城はその後早落城などと、不名誉な?名前で呼ばれるようになったとか。







伊深城本郭の切岸

武田氏滅亡後、府中に復帰した小笠原貞慶は、 赤沢氏が小笠原氏と同族だったことから、隣の苅谷原城も任すなど厚遇したようだが、 小岩岳城の古厩氏、塔の原城の塔原氏らとともに上杉景勝に通じて謀反を企てたとして、伊深城を属城としていた赤沢清経を切腹させている。









伊深城本郭

貞慶はその領域支配を強める中で小笠原家の積年の恨みを晴らすかのように次々と在地領主を謀殺したり攻め滅ぼしている。
その多くが小笠原の家臣だったが、武田信玄の侵攻によって武田に服従し、小笠原貞慶の復帰時に帰属した在地領主たちだ。 同族の赤沢氏も例外ではなかった。
恐るべし小笠原家の怨念。
若宮八幡宮から30分ほどで攻め登れる小城だが、本郭やその周囲の石積み、帯郭、土塁、堀切などの遺構は見応え十分。 とくに本郭北側の巨大堀切は驚嘆に値する。



2012年6月26日


伊深城縄張り図
松本市特別史跡 伊深城跡
(現地説明看板)

伊深集落を見下ろす標高911mの山に築かれた山城である。築城の時期は定かではないが、室町時代中期井深氏によると推定され、松本北部を守る重要な拠点であった。山頂付近には郭・空堀・土塁が随所に残っており、主郭(本丸)には桜や松の古木が素晴らしい景観をなしている。山城はいくさにおいて滴の侵略を防ぐ基地であるので、山頂までの道は急傾斜で険しい。
城の南に位置する若宮八幡社も、井深氏に代わる城主後庁氏の氏神と伝えられ、城の東にあった慶広寺とともに伊深城と深い関わりがあり、この地域一帯が古い歴史を持つことを示している。


平成18年 松本市

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