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戦国の安曇野 T

鳥羽館跡

安曇野市史跡 鳥羽館跡
熊倉街道の要衝であり、鳥羽郷の開発拠点としての館。 本郭は東西84m、南北72mで、北西隅に堀と土塁が残る。 15世紀末、生坂の日岐丸山の系譜を引く丸山肥後、続いて丸山将監が居住した。
武田信玄の安曇野侵攻に対して、豊科地域の武士は平瀬城に立て籠もって抗戦したが敗れ、 鳥羽館の丸山将監は京都方面を流浪し、 武田氏の滅亡後に小笠原氏の復帰とともに帰参したと伝えられる。





真々部氏館跡

安曇野市史跡 真々部氏館跡
安曇野に侵攻した武田氏は、市場が開かれ安曇南部の経済の中心地だった真々部を 越後の上杉氏に備える安曇野の軍事拠点として取り立て、 真々部館を中心に七寺八小路と言われる都市を形成した。
二の郭にあたる金龍寺は真々部氏の菩提寺で、真々部尾張守の墓と尾張守に嫁いだ武田信玄の娘の墓、 および嫡男孫三郎の墓が建てられている。 真々部尾張守は仁科盛政と同様に越後の上杉氏に通じたと疑われて武田氏に誅されたとされる。




飯田砦跡

安曇野市史跡 飯田砦跡
方形の土塁で周囲を固めた様子は砦というよりは館跡のイメージが強い. 土塁脇を江戸時代に開削された勘左衛門堰が湾曲して流れているのは、 堀跡を再利用したためと思われる。
武田氏の砦として伝えられるのは、安曇野進出の橋頭保として渡河地点を押さえ、 新参の吉野町館や真々部氏館に睨みを利かせる戦略的な施設として位置づけられていたからであろうか。



2012年2月19日

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