「信州ふるさとづくり応援団」安曇野支部が主催する安曇野ウオッチングはこれまで12回を数えるが、一度も雨に降られたことがないという。
今回も前日までの天気予報では雨ということだったが、明けてみれば朝のうちは天気雨で有明山に虹がかかっており、
天候は回復の兆しを見せていた。
スタート地点の旧有明村の新屋公民館に全員集合で、まずは記念撮影。
常連の参加者も多く、あちこちで挨拶が交わされる。
戦後まもなく建築された新屋公民館は、資材乏しい中で大きな空間を確保するための工夫が施され、
文化財への登録準備も進められているとか。
応援団メンバーの父君の設計になるものだそうだ。
安曇野の開発には用水の確保が不可欠。
明治初年に乳川で取水し中房川の河床の下を潜り天満沢までを開削。
水の流れはいわゆる押水で、水面に浮かぶ枯葉がゆっくりと動いているので
辛うじて流れのあることがわかる。
慶安3年(1650)創建の歴史ある諏訪神社。鎮守の森に囲まれた広い境内には子供相撲の土俵がある。
昔はどこの神社も子供の歓声が聞こえる遊び場だった。
境内の片隅に御船を組み上げた木が置かれていた。「なる」の木だと参加者に教えられた。
この神社も安曇野の他の神社同様に祭りには御船を曳き回す。
天明元年(1781)建築の神楽殿は安曇野市の有形文化財。
農村歌舞伎の舞台としても長年使用されてきたとかで、
柱の外側に太夫座という義太夫のための場所が設けられている。
ご他聞に洩れず伝統の担い手が居なくなって途絶えたようだが、
ここで農村歌舞伎を見てみたいものだ。
旅周りの農村歌舞伎があってもよさそうだが・・・
国の重要文化財に指定されている曽根原家住宅。
居間のことを「オエ」ということを初めて知った。
昭和20年、有明村も米軍機に空爆されて10数人の犠牲者を出している。
爆弾で吹き飛ばされ破損した馬頭観音像の前で説明に耳を傾ける。
B29による松本空襲の時、母はヤギを連れて避難したが、
無我夢中で引きずるように引っ張ったので
ヤギが死んでしまったという話を度々聴かされたことを思い出した。
旧有明村の中心街・学校町。
当時は村役場や小学校を中心に商店街が連なる有明の中心街だった。
火の見櫓が街のシンボルタワーであることは変わらない。
「初めてなのに懐かしい]風景というのはこのような場所を言うのだろう。
赤瀬川原平の路上観察学のブームがいっときあったことを思い出させるマンホールの蓋。
北アルプスと旧穂高町の花・シャクナゲをデザインしたもの。
「中心街」から少し小路を入ったところで発見。
崩れ落ちた白壁と板塀、そして一輪の朝顔。
巧まざるアートというところか・・・
中心街から100mも歩けばのどかな里道の辻。
大黒天を中心に道祖神や庚申塔、二十三夜塔、さらには御大典記念碑、道標までもある。
いわば石造文化の展示場みたいな場所だ。
一番古いのは天明6年(1786)建立の庚申塔だ。
天明といえば大飢饉の時代だが、安曇野に影響は無かったのだろうか。
冬季の里山を歩くと枯れた木々の小枝に驚くほど鮮やかな緑色の繭を発見したことがあった。
長い間その正体が不明だったが、ある時ネットで質問したところそれはヤママユガの繭で、「繊維のダイヤモンド」
とまで呼ばれる天蚕だと知った。
その天蚕の人工的飼育と産業化に日本で初めて成功したのが旧有明村だ。
そんな天蚕農家のひとつ林家を訪れた。
近年、山麓のクヌギやナラなどの樹林が減少し、
さらに病害虫にも弱いことから生産は激減しているとのことで、
天蚕技術の継承が課題になっているとか。
土蔵の軒下に吊るされた蝶籠が何故か物悲しく見えた。
有明一番地の耳塚の御堂。
急に人数が増えたので他の班と合流してしまったかと思ったが、
実は他県から来たカメラファンのグループだった。
江戸中期の御堂の前に様々な石仏が並び、
色鮮やかな花々に彩られてカメラファンならずとも絵心を誘われる場所だ。
ここも安曇野の石造文化財の展示会場よろしく二十三夜塔や青面金剛像など様々な石像が並んでいる。
その石像群の片隅に首に丸石をつないだ石仏があった。
明治維新期の過激な廃仏毀釈で首を刈られた石仏だ。
正面から撮るのは何故か憚られて後ろ姿を頂戴することにした。
耳塚の御堂から藤木稲荷までの道が長い。
ロケハンの時、この部分の説明をどうしようかと、ガイド役のTさんが悩んでいた道だ。
天気が良ければ北アルプスとかすかに色づき始めた有明山、そして東山の山並みを遠望できるのだが、
本日は生憎と曇り空。
それでも鈴なりになった柿の木が豊かな安曇野を誇るかのようだ。
渋柿と甘柿の見分け方を教えて欲しいところだが、残念ながら役割上最後尾。
一か八かでくすねた柿をかじって顔をしかめた子供時代が甦る風景ではある。
バラック小屋のような社に拍子抜けしてしまうが、地域の守り神としてとして古くからある藤木稲荷。
建物は貧弱(失礼)でも鳥居をはじめ脇に居並ぶ石像群が物々しい。
稲荷あり、御岳講あり、庚申あり、二十三夜あり、仏像ありで、安曇野の民間信仰揃い踏みというところ。
信州人の信仰心というよりも、ちゃっかりした合理性を物語っているのかも。
安曇野ウオッチングは普通ならば入れないような場所へも、
メンバーの繋がりで見学させていただき、ご当主に説明までしていただける。
さきの天蚕農家の林家もそうだが、
燕山荘の創業家・赤沼家もそのひとつ。ご当主は有明荘・大天荘・ヒュッテ大槍・合戦小屋など燕山荘グループの会長である赤沼淳夫氏。
自ら玄関先まで出迎えていただき、屋敷林への思い入れを聴かせていただいた。
赤沼さんが若い頃、鎌倉八幡宮から持ち帰ったという大銀杏の木が見事な黄葉を見せ、無数の実をつけていた。
遠慮のない参加者の一人が銀杏を拾い始めると赤沼さんは「どうぞどうぞ、何時でも拾いに来てください」と満面の笑みを浮かべるのだった。
赤沼さん、ありがとうございました。