安曇野風来亭 道楽日誌 操業日誌 戦国山城散歩 キノコ図鑑 小平漁協書籍部 自己紹介

風来亭のフォト日誌

安曇野・塔ノ原城跡

金玉池

自宅の裏山の長峰山も色づき始め、最低気温が10度を下回る日もあるようになった。 そろそろマムシに怯えることなく山城歩きができそうだということで、 9月には撤退を強いられた長峰山にある塔ノ原城跡に再チャレンジ。
「でいらぼっち」伝説のある金玉池の畔に車を置いて搦め手から攻める。








搦め手虎口

尾根道に刻まれた数本の堀切らしき痕跡を認めるものの、これが遺構とは確信できなかったが、 やがて尾根筋の右側に取り付けられた進むうちに堀切と竪堀で画された塁壁が現れる。 二つ三つと連なる様は壮観。
この道が往時のものかどうかは疑問があるが、土塁上からの攻撃は脅威。 尾根筋をたどるにしても手こずったことであろう。
守備側のそういった攻撃をかわして進むといちだんと深い堀切と高い塁壁に行く手を阻まれる。





本郭の切岸

切岸の高さは10m以上もあろうか。頭上にのしかかるような威圧感に圧倒される。 そこが本郭の塁壁だった。
本郭への階段部分に石が埋め込まれていたがつい最近河原から運び上げたような丸石だった。 漬物石にちょうど良さそうなものもある。
他の部分を確認できなかったが、遺構というには無理があるかも。 むしろ投石用として準備されていたものを後に土留めに使用したものか。





塔の原城本郭

本郭は幅はおよそ20m奥行き50mほどで二段に画されており、 坂虎口の向かい側には武者溜まりと思われる5m×10mほどの窪みがある。
大手筋に当たる北西方向に数段の郭が構えられているのが見える。 主郭の奥にはひときわ高く土塁が築かれ搦め手の守りを堅くしている。

印象としては守りに堅い山城だと思うが、武田勢の侵攻に際しては戦わずして自落している。




塔の原城副郭からの眺め

下段副郭の先端からは犀川越しに押野山や有明山が薄らと眺められる。犀川や高瀬川筋の監視には絶好のポイントだ。 周囲の木々を伐採すれば北アルプスの展望も得られることだろう。 以前訪れた青柳城址からの眺めを思い起こした。
この城の最後の城主となった塔原三河守は青柳城主と同様、 武田氏滅亡後に復帰した小笠原貞慶により誅殺されるという運命をたどっている。 人一倍猜疑心が強かったのか帰服した武士を何人も誅殺している。哀しきは戦国時代の小豪族だ。



2011年11月5日


安曇野市史跡 塔ノ原城跡  平成20年10月29日指定

塔ノ原城は、鎌倉時代の中頃川手郷の地頭となって東信から川手に進出してきた海野氏の一族塔原氏の本城として築かれました。城の規模は、500m×50mとかなり大きなもので、長峰山の尾根を6条の空堀で切り本郭と第二郭の主体部を設けている。さらに叶中部落の方向へ東側に5個、北の尾根筋に13個の帯曲輪を設け、主体部には土塁や石垣を巡らす大規模な城です。といっても松本城のような天守閣をもつ城ではなく、合戦の最後にたてこもる城で、普段は居住していません。塔原氏の居館は明科中学校付近にあり、普段はそこに暮らしていて、いざというときだけ城へたてこもるのです。居館のまわりには家来の住む城下町がありました。現在「町」の集落がその城下町のあったところです。
塔原氏は戦国時代の天文22年(1553)に、武田信玄に攻められ城を捨てて逃げたのち信玄の配下となりましたが、武田氏滅亡後、松本へ帰った小笠原氏との争いとなり天正11年(1583)松本城で誘殺され塔原氏は滅亡します。おそらく同時に居館と塔ノ原城も破壊されたものと思われます。
安曇野市教育委員会

<< BEFORE<< >> NEXT >>