安曇野の犀川右岸一帯は鎌倉時代に東信から進出してきた海野氏一族の支配領域だった。 海野幸継の次男が会田、三男は塔原、四男は田沢、五男は刈谷原、六男は光を、それぞれ支配したという。 (因みに長男・幸春は真田を領して真田の祖となる) 塔原城跡と光城跡は訪問済みなので 田沢城跡を訪れた。
安曇野には不似合いなラブホテルがある交差点を折れて篠ノ井線のガードを潜って進むと
すぐに田沢神明宮がある。
神明宮の手前左側にある駐車スペースに手書きの入口看板があり、
そこから攻城開始。傾きかけた土留めの階段を登る。
急斜面を2〜3分も登るとのしかかってくるような郭と思われる斜面が眼前に現れる。
這い上がって見ると武者隠しと思われる窪みがある土塁だった。最初に目にした遺構だ。
急斜面を巻くように登っていくと竪堀に突き当たる。
ここからがこの城の特徴とも言えるかもしれない竪堀と堀切を組み合わせたつづら折りの長い堀底道だ。
下から見上げると土塁が郭のようにも見え、三方から攻撃を受けそうな脅威を覚える。
上から振り返って見ると攻撃側の動きが手に取るように見える構造になっている。
右手の土塁上から下を見ると木々の間から帯郭が垣間見える。
堀底道の突き当たりは腰郭に続き、そこが主要部の虎口となる。
本郭部は三段の連郭式で東西15m、南北30m位で、そんなに広くはない。
大手の堀底道にすべての精力を注ぎ込んだかのような城だ。
アンテナ塔が建てられている下段は切り開かれているが、中・上段は布袋竹の藪に覆われている。
布袋竹が自生するのは初めて見た。
本郭には石積みに使用されていたと思われる石が散乱し、
立木には手書きの「田沢城跡」の看板が取り付けられていた。
本郭の背後は1.5mの土塁と3mほどの深さの堀切で守られ、竪堀となって西側に落ちている。
本郭の背後からの尾根道は光城跡に続いており、削平された郭のような場所もあって、
遺構だと思われるのだが確認しようもない。
光城の大城に対して田沢城は小城とされるが、田沢城の城域は想像以上に広大なのかもしれない。
先に訪れた上ノ城と比べても歴史的にも規模的にも決して劣らないこの城跡に
全く標識や説明看板が取り付けられていないことを疑問に思った。