「加助騒動」のことは松本に住んでいた小学生時分に教わった。
その「加助騒動」が「貞享騒動」であり「貞享義民の里」として地域活性化に一役かっているなどとは、
安曇野に移住するまでは思いもしなかった。なによりも「加助騒動」は松本の話だと思い込んでいた。
貞享義民記念館のシアターで「加助騒動」の物語を視聴して改めて教わった当時の感銘が甦った。
貞享3年(1686)凶作が続いているにも関わらず松本藩は年貢の引き上げを命じてきた。
これに対して庄屋の多田加助は困窮する農民を救うべく同志と語らって郡奉行に年貢減免を訴え出た。
これを漏れ聞いた農民たちは鋤鍬を手に手に押し寄せる大騒動となった。
狼狽した藩の家老たちは年貢は従来通りにするとの覚書を出して鎮静化を図ろうとした。
しかしその約束はその場しのぎの欺瞞でしかなく、まもなく加助たちは家族ともども捕えられて処刑される。
磔8名、獄門20名と、例を見ない大人数であり極刑だった。
多田加助宅跡に建てられた貞享義民社にはこれら28柱が合祀され、
社前の広場には28名の名前が刻まれた貞享義民顕彰慰霊碑が建立されている。
松本藩は従来は一俵三斗挽だった年貢を三斗五升挽とすることを命じてきた。
近隣の諏訪藩や高遠藩は二斗五升挽だったから農民の不満は募るばかりだった。
加助は磔台から松本城を睨み「二斗五升!」と絶叫して果てた時、
松本城が大きく傾いたと伝わる。
加助ら安曇の18名が処刑されたのは松本市の丸の内中学校の敷地だという。
中学校の建設中に白骨が発見された。
転校がなければ私が進学していたはずの中学校だ。
加助らが同志を集めて密議をこらしたのが熊野神社。境内には加助が逆さに刺した杖が巨木に育ったと
伝えられる逆さ杉がある。
そういえば「謙信の逆さ桜」、「親鸞の逆さ竹」などというのもあったりして、
「加助の逆さ杉」と同じように庶民の畏敬の念や奇跡願望が生みだした伝説と言えるだろう。
結局、加助らの要求は勝ち得ることはできなかったが、後々までも義民として敬われ、
明治期の自由民権運動のプロパガンダにも使われて知られるようになった。
熊野神社の境内の切り倒された木にヒラタケが生えていた。
いつもならありがたく頂戴するところだが、さすがにこの場所では遠慮することにした。
今から300年前の貞享丙寅3年(1688)、松本藩主水野忠直公の時のことである。この年藩主は参勤交替で江戸に居た。
松本藩の農民に課する税(年貢)は近隣の他領に比べて厳しかった。即ち約70年前に松本藩から分かれた諏訪領の東五千石と、高遠領の西五千石の村々は、分かれた当時のままに籾一俵は米2斗5升挽であったのに対して、松本藩領はその後の藩主によって3斗挽に改められ、水野氏もそれをそのままに引継いでいたのである。松本藩の農民はこの近隣の2斗5升挽を常にうらやみながらも、やむなく耐えていた。したがってその暮らしは明らかに苦しく、その上近年不作の年が多く一層に困窮していた。
しかるにこの年収納に当たって代官の命を受けた組手代はのぎふみ磨きと3斗挽4・5升挽を厳命してきた。このため農民の悲憤はやるかたなかった。
このような過酷な重税に苦しむ農民を身を投げうって救おうと多田加助を頭領とする同志の者は、10月10日夜、密かに権現の森(熊野神社)に集まって協議し、籾1俵を両5千石並みに2斗5升挽にすることを主とする5か条の訴状をしたためて、10月14日郡奉行所へ訴え出た。この企がどこからか洩れて、たちまち領内の村々へ伝わると農民はこの企に加勢せんと蓑笠に身を固め、鋤鍬を得物に四方より城下へ押し寄せた。
思いもよらない突然の大騒動に驚き、あわてた藩の留守居役は、これをなだめ、鎮めようと種々の策を講じたが農民達はいっこうに聞き入れず、その数は益々増加して16日には万余に及んだと伝えられている。そして遂には町内の挽屋・庄屋等5軒の家へ大勢で押し入って家を壊し、物を奪い取るなどのこともでてきた。
困惑した藩側は、16日の晩に同日付郡奉行名を以って籾納はこれまで通り1俵3斗挽でよく、のぎふみ磨きは無用であるとしたほか、他の項目もほとんど聞き入れる旨の証文を認めて組手代達に渡した。
17日朝、組々の組手代からこれを見せられた農民の、その大半は一応ひと安堵して各組手代の説得に応じて、それぞれの村へ引き上げた。しかし加助ら同志と百数十人の農民は、あくまで2斗5升挽を要求すると共に家老の証文を求めて退かず城下に留まっていた。
家老らは騒動の長引くことと、或は加助らが江戸表へ直訴するやを恐れて窮余の末、遂に偽りの策のもとに18日の夕刻に至って、2斗5升挽も聞き届ける旨の家老連判の証文を出した。これを留まる者達に知らせると共に、翌19日には、この証文を各組々へ届け渡した。これによって、加助ら同志と居残った農民は喜び勇んで残らず村々に帰り、騒動は数日にして全く静まった。
ところがその後、種々の口実を設け、或いは手段をめぐらして、百姓同意の連判のもとに、組手代をして、この証文を返上させてしまった。そして江戸へは、真相を密して注進し、藩主を欺き、遂にはその裁許のもとに加助らは処刑されるにいたった。
即ち、騒動の一ヶ月後の11月16日の未明から加助ら同志の者達は子弟もろ共に一斉に捕縛投獄され、その数日後の11月22日に安曇郡の者は勢高に設けられた臨時処刑場において、筑摩郡の者は出川の藩の処刑場において、ことごとく磔或いは獄門の極刑に処せられて終わった。
その数は磔8人、獄門20人で、百姓一揆史上まれにみる多数であった。
加助は最後十字架上から城をにらみ“二斗五升”と絶叫して息絶えたという。
もともと加助らは、累の農民に及ぶを憂えて、同志の者たちだけの意図で、妻は離縁し、子は勘当して我が身のみは決死の覚悟で立ち上がったのであるが、伝え聞いた農民達は黙し得ず、期せずして領内一円の大騒動となり、その結果、この騒動の首謀者ことごとく、その子弟もろ共に極刑に処せられて、農民の犠牲となったのである。
昭和61年丙寅年11月
貞享義民300年記念実行委員会・貞享義民社奉賛講