天文22年(1553)武田勢は竹を束ねた盾で鉄砲弾を防ぎながら攻め上がり城主の太田資忠を生け捕りにしたという。
この城を攻めるのは2回目。前回は資忠の菩提寺洞光寺の裏山から登ったが、「止め山・罰金50万円」と
の夥しい数の張り紙に戦意喪失して途中で撤退。
下山後、洞光寺の駐車場で作業中の方に尋ねたら、11月下旬以降はキノコが終わるので問題ないとか。
今回は昭和公園の背後の尾根から攻め上がることにした。
鳥居をくぐり急斜面に刻まれたジグザグの細道を登りつめた 尾根の末端は三方が急崖で老松に囲まれているが、 この木々さえ無ければ善光寺街道(北国西街道)方面を監視する物見台跡に見えないこともない。 ここから城域かと思いきや、すぐに道は途絶えて藪の中に突入。 けもの道とも判別もつかない踏み跡を探しながらひたすら登る。 この季節でないと歩くことさえままならぬ藪尾根だ。 30分ほども藪と格闘を続け、 勾配を増した斜面を登ると立ちふさがるように土塁が現れる。 這い上がってみると、埋まりかけてはいるが大堀切の跡だった。ここからが漸く遺構が確認できる城域。
本郭のある山頂からは3本の尾根が伸び、それぞれに何本かの堀切が刻まれ竪堀となって左右に落ちている。
帯郭状の遺構も数段あるが防御施設はその程度のもので、尾根は長大だがあっけないほどの小城ではある。
武田の大軍を迎えてこの小城に立て籠もった資忠の狙いが理解できない。
刈谷原城が落ちるとともに近隣の塔ノ原城、光城など戦わずして自落しているから、
3日間も抗戦できたのは良しとすべきか。あるいは、近くにある荒神尾城こそが
信玄に攻められた苅谷原城なのかもしれない。
本郭に建てられた石造りの小さな祠が誰の仕業かひっくり返っていたので修復して合掌。