河童橋の喧騒を抜け出すと閑静な小梨平。
かっては大学の山岳部のテントが林立して難民キャンプの様相を呈していたところだ。もっとも、当時は難民キャンプなどという言葉は無く、炊飯時ともなれば日焼けした大学生たちで活気に溢れていたことだろう。
松本の叔父は、子供の頃岩魚を獲ってこれらの学生たちに売って上高地でひと夏を過ごしたことがあると、
酒に酔うたびに話していたものだ。
徳沢への道は左手の梓川越しに明神岳を眺めながら進む。
道は平坦だが明神岳の峰々に目を奪われるので、なかなか前に進まない。
徳沢辺りまで来ると歩いているのはほぼ登山客だけになる。
普通の観光客はせいぜい明神池止まりなので、山ガールの姿が目立つようになる。
カラフルなファッションで身を固め、さわやかな笑顔と挨拶が嬉しい。
しかし一枚の布団に」3人という山小屋泊まりの現実に彼女らは耐えられるだろうかと、無用な心配をしてしまう。
しかし、なかには単独行でテントを担ぎ、しかも山も天泊も初めてという猛者?もいて驚く。
若い女性が多い割りに男性は少なくて、テン場が婚活の場になるのはもっとさきのことかな?などと、
つまらないことを考えてしまった。
横尾山荘からは屏風岩を眺めながら色づき始めた森の中の道を行く。
山荘で「今年の涸沢の紅葉はイマイチだ」などと小耳に挟んだので、
屏風岩麓の色合いを丹念にチェックしては一喜一憂。
本谷橋はこれから登る人、下りてくる人、山ガールと元山ガールとが行きかう絶好の休憩場所だ。
これぞ山ガールというスタイルの若い娘が、仮設の板橋もあるのに、わざわざ揺れる吊り橋をへっぴり腰で渡っていたりする。
本谷橋からがいよいよ本格的な山道となる。
色づいた木々の葉の色が嬉しい。
涸沢カールの紅葉への期待を膨らませることで疲れを払いのけ、
右手に見え続けている横尾尾根の変化を楽しみながら一歩一歩登る。
涸沢を訪れるのは学生時代に奥穂高に登って以来だから40年ぶりくらいになる。
貧乏学生のこととて金もないので安物のビニールテントを担いで、
初日は徳沢園で、二日目は涸沢でテント泊、
奥穂高に登頂後、飛騨側の雪渓を一直線に下降するという無茶苦茶な山歩きだった。
安物のテントは寒く、ウレタンマットなどもなかったから、背中がゴツゴツと岩に当たり、
良く眠れなかったことを記憶している。
そのとき同行した友人は50半ばで急逝した。インドを放浪するために何度か職を変え、
女性との噂はあったが生涯独身を貫いて己が生きたいように生きた漢だった。
顔を合わせると「かったるい、かったるい」を連発していた彼、誰にも見取られることなく、
「かったるいなあ」とつぶやいて逝ったのかもしれない。
山荘で耳にした通り涸沢の紅葉はイマイチだった。
雪のために盛りを見せることなく枯れた木々が無念そうに風に揺れている。
若くして逝った友を思った。
しかし、ただ一か所、キャンプサイトの一隅だけが鮮やかな紅葉を見せてくれている。
彼とテントを張ったサイトだと思った。
そうだと思いたかった。
涸沢カールから横尾山荘にトンボ帰り。
涸沢の紅葉情報がネットにでも流れたのかキャンセルが相次いだらしく、
予約時には満員だったはずが、食事時の行列も無くゆったりと寛ぐことができた。
前日には見られなかったモルゲンロート。身体が冷えるのを厭わずに眺め続けていた。