今月25日に全国安曇族サミットが開催されるということで、
安曇野新住民の私としてはほとんどにわか勉強で安曇族の謎に挑むことにした。
自宅から見える北アルプスが雲に隠れる日はあっても有明山が見えない日はない。
毎日有明山を眺めていると、この山こそ安曇野のシンボルだと思えてくる。
池田町在住の坂本博氏も有明山を眺めながら「信濃安曇族の謎を追う」の論考を著した。
安曇族についての定説・通説を知らない私にとっては入門書ともいうべき本だ。
それによると、安曇野族は6世紀に起こった磐井の乱により筑紫を追われて日本海を北上、
交易を通じて友好関係にあった越後のエミシが住む糸魚川に着き、
そこから姫川を遡上して、安曇野に定住したのだという。
しかし、その活動拠点は一般に言われるところの穂高神社付近ではなく、
もっと北寄りの松川村鼠穴集落付近だったという。
そして、坂上田村麻呂の支援を受けた仁科氏によって滅ぼされたのだと論証する。
早速、本を片手に安曇族ゆかりの地を巡ることにし、
まずは「泉小太郎と犀竜」の伝説が伝えられるという川会神社へ。
坂本氏はこの川会神社こそ安曇野族が祀った神社であるとし、
通説となっている穂高神社ではないという。
穂高神社の祭神が安曇族のそれとは異なるというのだ。
安曇族は烏川の北にとどまり穂高以南には南下しなかった、
エゴの食用率からもそれが立証されるというのだ。
神社を出る時、鳥居に氏子代表として同氏の名を発見、身贔屓か?と一瞬だけ思った。
川会神社の祭神は底津綿津見神のみで、
他の中津綿津見神と表津綿津見神の二神は何処に祀られているのかというのが坂本氏の疑問。
有明山神社がそれに該当すればよいのだが、ここには綿津見神は祀られてはいない。
ここで同氏はウルトラCを使う。有明山神社がある王城付近に「幻の有明神社」があったとし、そこに中津綿津見神が祀られ、
残る表津綿津見神はほかならぬ有明山頂に祀られていたとするのだ。
これはもう有明山に登って確かめるしかない。
魏石鬼窟へは有明山神社の参道に接する正福寺の境内右手から山道に入る。
魏石鬼窟は八面大王という大鬼の住処とされ、里に下りては略奪と暴行を繰り返したので
坂上田村麻呂に征伐されたのだという。
大鬼伝説と「親子熊出没」の張り紙に怯えながらも、山道に点在する石仏の優しい表情に心が和む。
坂本氏は八面大王は筑紫から安曇野族を率いてきた「八女大王」ではないかと考える。
磐井の乱の後、磐井の子・葛子は安曇野族の本拠地である糟屋郡を差し出して助命嘆願をしている。
磐井は八女を本拠地にしたことから、葛子またはその系譜を引く者は「八女大王」と呼ばれ、
「八女大王=八面大王」となったのではという。
八面大王は安曇族の大王ということになる。
「鼠穴」とはなんとも奇妙な名前だが、江戸期から明治初期まではれっきとした村名としてあったから面白い。
直径1mほどのなんの変哲もない石に拳ほどの穴があいているだけなのだが、いくつかの伝説に彩られている。
坂本氏はこの鼠石にまつわる伝説の内、八面大王の一味であるネズミ族がこの穴に隠れていたという伝説に着目、
鼠穴地区周辺こそ安曇族の本拠地だったと推論する。
地図で見ると尾根を挟んで魏石鬼窟のちょうど東側に当たり、鼠石の背後の山は山城のようにも見えてくる。
「鼠=不寝見」ということで、安曇族の詰城があったのかもしれない、などと空想するのも楽しい。
「耳塚」とはこれも立派な地名となって残る。鼠穴村と同じく江戸〜明治初期には村名にもなっていた。
安曇族の墳墓で、征伐された八面大王の耳を埋めたとされる円墳があり、大塚神社という社が建てられている。
因みに首は松本の筑摩神社、身体は大王わさび園の大王神社に埋められたとされる。
井沢元彦流に言えば、安曇族の怨霊を封じ込めようと神社を建て地名に留めたとも思われる。
「安曇族サミット」での同氏の講演が楽しみだ。