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寺尾 茶臼山城跡

2011年1月10日

茶臼山城

茶臼山城跡
高崎市の寺尾にある茶臼山城跡(鷹ノ巣城)が地元有志の手によって整備されたと聞いて訪れた。
アプローチが容易な城山町側から入る。おそらく城山町側にも城の遺構はあったと思うが、 高速道路工事の土砂採取の為に削平されたとかで、何も残ってはいない。
城山自体も斜面が削り取られていて昔日の姿を思い浮かべるよすがもないが、 城山町の一方を縁どる谷の深さに城域の堅固さが想像できるのみ。






城山町

城山町の街並み
無残に削り取られた斜面の階段を、背後に広がる城山町の街並みを振り返りつつ登る。 建物も敷地面積もゆったりした閑静な高級住宅街だ。 寒さもあってか人影はほとんど無いが、すれ違う人ごとに会釈を投げかけてくる上品な街だ。
この街の有志が城跡を整備したということなので期待が膨らむ。








本郭堀切

本郭堀切
階段を登りきった山頂は藪に囲まれていて、前回に訪れた時と変わった様子がなく、 本郭との間の堀切の藪も切り払われておらず、ちょっと拍子抜け。 「堀切」の看板だけは新しい。
堀切の向こう側は崖なのか、そのまま竪堀に連なってなっているのか確認したいところだ。









本郭横堀

本郭下横堀
堀切を下り本郭に向かうと整備された様子が見えてきた。
以前は無かった説明看板が建てられ、本郭の周りを巡る横堀の藪が切り開かれている。
お陰で本郭を取り巻く横堀と土塁の様子が明瞭に見て取れる。









本郭坂虎口

本郭坂虎口
「戸口」という看板は新たに取り付けられたもののようだが、正確には「虎口」ではないだろうか。 「コグチ」の聞き間違いか?
藪が切り払われているので虎口前の道が土橋であったことに気がつく。右手の横堀は思いの外深い。










本郭虎口の鳥居

虎口の鳥居
以前に訪れた折にはこの鳥居をくぐった場所が本郭であると思いこんで、 茶臼山城は狼煙を上げる砦の程度と考えていた。












本郭の土塁

本郭の土塁
しかし、鳥居の左手に広がる郭を見て驚き、全くの思い違いだと気がついた。
これが地元有志による整備の実態だった。灌木や藪草がきれいに切り払われている。 広い本郭が現れ南西方向には土塁も盛られているではないか。 看板の取り付けだけの整備ではなかったのだ。
地元有志の皆さんに感謝!







本郭跡土塁の石仏

土塁跡の石仏
土塁の片隅に慶応二丙寅年と刻まれた石仏が建てられていた。 寺尾側の入り口にも同じような荒削りだが味わいのある石仏があったことを思い出した。
現地の説明看板によれば、新田氏の祖となった源義重の居城であり、 南北朝時代には南朝方の新田義貞の弟・脇屋義助も城主であったことがあるとされており、興味深い城跡だ。
本郭以外はまだまだ濃い笹藪に覆われており、その全容を見ることができない。 機会があれば城跡の藪草刈のボランティアに参加したいものだ。






茶臼山城縄張
茶臼山城跡 (現地説明看板)

所在 高崎市寺尾町字茶臼1073−14

鎌倉時代から戦国時代まで400年の城郭と考えられます。
城としての変遷は明らかでないが、高崎市史等で確認されるこの城の記録を列挙します。
1、鎌倉時代 新田義重の居城
新田勤皇史によると「義重公様御在城南上州寺尾村茶臼の城」とあります。 新田義重は源八幡太郎義家の孫で里見・山名・新田・世良田(徳川)各氏の祖であり墓碑は寺尾町永福寺にあります。
1、南北朝時代 大河内家文書によると、寺尾千臼城(チャウスジョウ)城主は新田義貞の弟、脇屋義助としています。
1、室町時代 新田実録によると「正長年中(1428年頃)和田小太郎が、寺尾茶臼山城起也」とあります。
1、戦国時代 甲陽軍鑑によると、「永禄8(1565)年 武田氏が山名城と鷹ノ巣城(寺尾茶臼山城)の間に新城(根小屋城)を築く」とあります。
1、「形 状」
山頂にある本郭は標高168m 東西35m×南北50mの長方形。
北から東に堀をめぐらせている。南面は大規模な堀切で尾根を断っている。
戸口は東面中央、坂戸口1ヶ所のみである。

城山町 考楽会 平成21(2009)年11月

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