騎西城跡
義の武将・上杉謙信の評判が関東では頗る悪い。
上杉憲政に関東管領職を譲られて以来、毎年のように越山して離反常無き関東の諸将を攻め歩いた謙信。
利根川を境に東と西を北条と武田とで分け合う関東に騒乱を起こす狼藉者だとでもいうのか。
永禄6年(1563年)、北条と武田の連合軍に攻めら立てれている松山城の救援に赴いたが間に合わず、
その腹いせとばかりに攻め落としたとされる騎西城。
往時は沼地に守られた要害の平城だったとされるが、現在僅かに残る遺構は天神郭の土塁のみ。
歴史博物館として建設された三重櫓がなんとも珍妙ではある。
羽生城跡
広田直繁・木戸忠朝兄弟が築城し、その後北条に奪われていた羽生城を謙信が取り返してやったことから、
兄弟の忠誠心は厚く、忍城の成田長泰など周囲の武将が離反を繰り返したにも関わらず、
15年にわたって謙信の関東攻略の拠点となってきた。
そのためかどうか、謙信に対するこの地域の住民感情は好意的だそうだ。
羽生城も遺構らしきものは何も残っておらず、古城天満宮がある場所が郭跡と伝えられるのみ。
直繁が継いだ広田氏は菅原道真の末裔と言われ、天満宮が建てられているのも頷ける。
天満宮の敷地にあった縄張り図は古ぼけて限りなく不鮮明だったので、日本城郭体系の図面を参照して修復してみた。
羽生城は天文年間の中頃(1540年代)に古河公方(足利晴氏)の配下であった広田直繁・木戸忠朝の兄弟によって築かれました。
三方を沼地で囲まれた天然の要害であり、上杉謙信の関東攻略の最前線基地でしたが、
天正2年(1574)に落城し、忍城主の支配となりました。
徳川家康の関東入国後は大久保忠隣の支配となりましたが、
慶長19年の忠隣の改易に伴い廃城となりました。現在名残をとどめるものは何もなく、当地は天神廓の推定地です。
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)
上杉・長尾・庁鼻和氏が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが所見である。
永禄6年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落としている。
徳川家康が関東に入った天正18年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。
やし重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。
その後、大久保忠常・忠職親子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。
寛永9年(1632)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。