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高崎 長野郷城館群

北新波館の堀跡と土塁

箕輪城を拠点にして武田勢に対して最後まで抵抗した長野氏が、最初に土着したとされる城館群が高崎市の浜川にあると知り探索することにした。
近藤義男著「箕輪城と長野氏」(戎光出版)所収の概念図を頼りの文字通りの探索行。











北新波館の堀跡と土塁

唯一明確な地点は北新波館跡に隣接する満勝寺、まずはカーナビに入力して出発、難なく目的地に到着
北新波館跡は史跡公園として整備されており、 堀は埋め立てられているものの、郭を廻る土塁や虎口の折れなどが見事に復元されている。 新田でも見たことがある典型的な地方豪族の館跡だ。
史跡公園の駐車場に車を置いて他の城館群を探索開始。








浜川砦の榛名神社

城館跡の説明看板の地図も本の地図と同様で現代の道が記されておらず、 方角と川の流れだけを頼りの探索行。
水路や畑の段差に一喜一憂しながら小一時間ほど彷徨うが、 遺構らしき地形に幾つか出会ったものの、地図上の城館ではなさそうだった。
車に戻って走り回り、畑地の中に土塁らしき地形を発見、 そこを目指すと浜川砦付近にあるという榛名神社だった。 神社は浜川砦の鬼門の守りのようだ。







浜川砦の堀跡と土塁

神社のすぐ傍らを井野川の支流が湾曲して流れている。 浜川砦はこの流れと現在は畑となっている堀跡と土塁によって守られていた。
砦跡には「長野」という表札を掲げたお宅が数件あって、ここが長野氏発祥の地であることを窺わせる。
しかし、この付近が浜川砦跡であり初期長野氏の拠点であったことを説明する看板などは何処にも無く、 遺構が破壊され消失するのも時間の問題だと思った。







長野地区城館群の現地説明看板

長野地区城館群

長野地区は中世末に西上州の武士の旗頭として活躍した長野氏発祥の地である。
地域に分散する環濠遺跡群は14世紀後半から16世紀中頃の長野氏成長期の遺産である。
この地域も12世紀初めの浅間山大噴火による軽石の降下で壊滅的打撃を受けた地でもある。 水田の再開発には長野氏が指導的役割を果たしたものと考えられるが、 環濠施設は防衛的施設ばかりでなく、平時には灌漑用水の貯水池としての役割をもっていたのである。
やがて長野氏は15世紀中頃に箕輪城を築き、16世紀中頃に武田氏に攻め落とされるまで、 西上州の中世武士団の盟主として君臨している。
なかでも北新波砦は長野氏の成長と深いかかわりがあり、さまざまな中世武士団成立の過程を秘めた遺跡である。

群馬県教育委員会・高崎市教育委員会









北新波館の空撮写真
北新波館の現地説明看板

早瀬川とその支流関端川に挟まれたこの地は北新波町字古城である。 15・16世紀にこのあたりに勢力を持っていた長野氏は、多数の城郭群を形成したが、 古城の地にある北新波砦跡と隣接する満勝寺郭は早瀬川や関端川を外郭とする大きな防衛線の中心部であったと考えられる。
本史跡は南北約75m、東西約75mのほぼ正方形をなす小郭で、 南辺中央部に出桝城の突出部を付属させ、周囲には幅4〜5mの堀と土塁をめぐらし、 突出部東側の土橋から郭外に通じる構造である。
昭和59・60年度に高崎市教育委員会が史跡整備を目的とした発掘調査を実施している。 調査箇所は堀部と郭内の一部のみであったため全容は明らかでないが、 建物跡や井戸跡と考えられる遺構とともに当時の生活用具類や古銭墓石等が出土している。

群馬県教育委員会 高崎市教育委員会

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