上杉謙信の急死によって越後は内戦状態に陥った。
謙信が家督相続について明確にしていなかったことから、景勝と景虎の二人の養子が争う御館の乱だ。
この機に乗じて上州からは景虎の実家である小田原北条勢が、信州からは北条と同盟する武田勢が侵入、
景勝側は劣勢に追い込まれた。
こうしたなかで三国峠を越えてきた北条勢を迎え撃ったのが景勝の生地の上田衆だ。
北条の大軍の前に荒戸城は抜かれ、景勝が生まれた樺沢城も奪われたが、
上田衆は坂戸城に拠って頑強に抵抗し、最後には撃退した。
上田衆の一員でもある清水藤左衛門も浦佐城に立て籠もり、
時には坂戸城救援のために打って出たという。
謙信が信仰し守護神とした毘沙門天を祀る浦佐毘沙門堂に詣でてから入山する。
坂戸城の小規模な支城の一つだろうと期待もしていなかったが、どうしてどうして、
山頂の二郭からの越後三山の眺めや遺構の見事さについ感嘆の声をあげてしまった。
二重堀切付近でキノコ狩りをしている人に出会った。獲物はアブラシメジだった。
第四郭坂虎口と空堀 本 郭
本郭大堀切 二重堀切
浦佐城跡は薬師山(標高約300m)に築かれた中世の山城跡で、
山麓を通る三国街道を抑え、魚野川の舟運を監視する要地に所在する。
天正6年(1578年)3月に上杉謙信が急死すると、二人の養子、上杉景勝(坂戸城主長尾政景の子で、謙信の甥)と
上杉景虎(小田原北条氏康の子)が後継者の座を争い、越後国を二分する戦乱が勃発した(御館の乱)。
同年9月、北条軍が景虎に加勢するため関東から侵攻し、浦佐城を含む南魚沼の諸城を攻撃した。
翌年、雪消え近い2月、景勝は北条軍の再攻撃に備え、清水藤左衛門に浦佐城の守備を固めるように命じている。
薬師山の尾根は東に細長く延び、両側は深い谷となって急崖をなしている。
山上は大きく3段に削平され、四つの郭が築かれている。
下段に位置する第四郭は丘陵先端部直下の南側山腹にあり、8m下には幅1mほどの溝が帯状に巡っている。
中断の第三郭は第四郭の直上、尾根の先端部にあり、北側は細長く小高い小丘状を呈する。
上段の第一郭と第二郭は、第三郭の背後に13mの比高差をもって連続する。
第一郭は長さ90m、幅18mの最大の郭で、第二郭との間は幅10m、深さ6mの堀切によって断ち切られている。
第一郭から20m下の南側山腹には、この堀切と第四郭を結ぶ幅6mの帯郭が設けられている。
第二郭の背後(西側)は幅20m、深さ10mの大きな二重の堀切によって尾根が断ち切られており、
背後の防御を非常に堅固なものにしている。山上の城郭は全長260mに及ぶ。