藤田信吉という武将に興味がある。
北条、武田、上杉と主をかえ、上杉景勝の家臣として重要な地位に登り詰めていたが、
徳川家康が上杉征伐の軍を起こすと景勝に帰順するように説得して失敗、
直江兼続等に追いつめられて徳川を頼って出奔する。兼続が義の武将として称賛される一方で、
奸臣と言われて落しめられてきた武将だ。(藤田信吉については別の機会に譲るとしよう)
その信吉の一族が拠ってきたのが花園城だ。
まずは花園御岳城址を目指す。花園城よりも高い位置にあって、 ここを占拠されると花園城の様子が丸見えということで築城されたといわれる。 麓の鳥居を潜って尾根道を登ること約20分。 麓に館跡と思しき段郭の雰囲気がある程度で山頂付近までは単調な登り。 空堀と土橋の端に建てられた鳥居と狐の石像に迎えられて階段を上ると薄暗い本郭。 信仰の山らしく多くの神霊を刻んだ石碑が林立していて一種異様な雰囲気。 東郷平八郎や乃木希助を神として祀った石碑もあったりして多神教の日本の面目躍如。 本郭には坂虎口もあり、下方には段郭も見えているが、藪の深さに降りるのは諦めて二の郭のみ確認して下山。
次に花園御岳城址の隣の山にあるという花園城址の攻城を目指す。
藤田一族の菩提寺藤田善導寺に車を置かせてもらい、諏訪神社から入山する。
しかし、山道はすぐに踏み跡も消え、本郭につながっているはずの竪堀の堀底道も深い藪に
阻まれてしまったので早々に諦めて、諏訪神社境内で銀杏拾いに勤しむ。
帰途、藤田康邦夫妻と北条氏邦夫妻の墓がある正龍寺に立ち寄った。
信吉の父母(祖父とも)と義兄の墓だ。領地を奪われ実子を謀殺された康邦が、
その張本人の墓と並んで同じ霊廟に安置されているのが何とも奇異な光景ではある。
藤田康邦墓 付夫人西福御前墓
北条氏邦墓 付夫人大福御前墓 (現地説明看板)
藤田康邦は、正龍寺の西の山上に築いた花園城及び周辺の藤田郷を中心とする地域を
支配した在地領主の藤田氏15代当主と伝えられている。
藤田氏は、武蔵七党と総称される中小規模の武士団のひとつである猪俣党の系譜を引いており、
室町時代には関東管領を世襲した上杉氏の一族山内上杉家の重臣として活躍した。
康邦は、北条早雲を祖とする後北条氏の北関東支配が強まる中で、
北条氏康の三男氏邦を養子に迎え、娘の大福御前を妻あわせた。
康邦の没年は、天文24年(1555)、夫人の西福御前は永禄5年(1562)である。
北条氏邦は、藤田氏の名跡を継いで天神山城に入ったが、永禄年間に鉢形城を改修して居城とし、
後北条氏の北関東経営の拠点とした。
天正18年(1590)豊臣秀吉に降伏した後は、前田利家に預けられ能登国七尾で晩年を過ごした。
没年は慶長2年(1597)と伝えられている。
なお、夫人の大福御前は、文禄2年(1593)正龍寺で死去している。
戦国期の宝篋印塔としては大型で、笠に彫られた蕨手や竪連子の文様等に特徴があるこの4基の墓は、
戦国末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を如実に物語っている。