歳末恒例歴男ツアーの今回のテーマは「藤田一族の興亡」ということで、 藤田氏ゆかりの城跡を訪ねることにした。
天神山城跡
藤田氏は関東管領山内上杉氏の重臣として北武蔵に勢力を奮っていたが、河越の夜戦の後、
北条氏が台頭し主家上杉氏が没落すると、藤田重利は止む無く北条氏に帰属し、
娘の婿として北条氏康の三男氏邦を迎え、名も康邦と改める。
その重利が築いたのが天神山城だ。
残念ながら城址への道にはゲートが設けられていて立ち入り禁止になっていた。
天然の堀となっている沢の向こう側になんとか遺構の痕跡を見つけようとしたが
「私有地につき立入禁止」の看板がそれをも拒絶しているかのようだった。
花園城跡
藤田康邦が天神山城を築いて移るまで藤田氏の拠点となっていた山城だ。
先月中旬に妻と共に攻城を試みたが、深い藪草に阻まれてあっけなく敗退した城だ。
今回は歴男一族の力強い?支援を受けての再チャレンジ。
藪草は枯れて心なしか薄くなったようだが、枯葉が敷き詰められた竪堀は急峻で滑りやすく
攻城は難儀した。藤田の城の特徴とされる二重の竪堀も同行者の方向感覚を惑わしたようで、
知らぬ間に隣の竪堀を登っていたりした。
本郭の堀切
ようやくたどり着いた二重竪堀の合流地点を登りきると石積みで固められた桝形虎口があった。
虎口から上方に本格的な山城の遺構が次々と現れてきた。
本郭と二郭の間の岩盤を掘り下げた堀切の見事さには驚嘆した。
堀切はそのまま下って横堀となって本郭を廻っている。
花園城跡本郭
堀切を登り返すと二段の段差のある削平地が本郭で、その最奥部に城跡の石碑が建てられていた。
誰が置いたか石碑の前の「石碑」という看板がとぼけた味をだしている。
帰途はもと来た道を戻ったがなかなか先行の二人に追いつけない。
隣の竪堀を降っているのだろうと考え始めた時、携帯のベルが鳴った。
私が迷子になって何処かで遭難してるかと心配したらしい。
しかし迷子になったのは彼らだった。別の竪堀を滑り落ちるように降りてきたのだった。
花園御嶽城跡
花園城の北西500mほどのところにある御嶽山、
ここを敵方に占拠されると花園城が丸見えになるとのことで築かれた砦が御嶽城。
前回訪れた折は老人保健施設のある御嶽神社の参道から登ったので、
今回は五百羅漢がある少林寺側から登った。
どちら側が本来の大手道かは不明だが、道としては御嶽神社参道の方が明確で、
少林寺側からは踏み跡さえ定かでない藪歩きが続いた。
この時期でなければ最初から攻城を諦めたと思う。
夥しい数の五百羅漢像は圧巻だ、
自分に似ている像が必ずあるというがついに見つけられなかった。
高根山藤源院 正龍寺
藤田氏の始祖・政行が開基したと伝えられる正龍寺には
藤田康邦夫妻と北条氏邦夫妻の墓が廟屋の中に並んである。
氏邦は康邦の娘を娶って藤田の名跡を継いだが、康邦の長男・重連を毒殺し、
次男の信吉をも武田方に追いやっている。
謂わば敵同士の義理の親子が並んで葬られているという不思議な光景ではある。
信吉は後に上杉景勝の家臣となって重きをなしたが直江兼続と対立して出奔、
家康の上杉征伐の口実を与えた「逆臣」として知られる。
鉢形城跡
北条氏邦は関東への支配力を強めるべく鉢形城を大改修して天神山城から本拠を移した。
その堅城ぶりに信玄も攻略を諦めたという。
狭隘な山城の遺構を見慣れた目には、鉢形城の遺構のなんと壮大なことか。
だが、この堅城も秀吉の小田原征伐の際には前田利家や
上杉景勝の北国軍に大砲によって攻撃されて降伏した。
上杉軍の先鋒を務めていたのが藤田信吉だった。
その後、信吉は兄の敵である氏邦の助命嘆願に奔走したといわれる。
用土城跡
藤田重利(康邦)が天神山城や花園城を婿養子の北条氏邦に譲って隠居城として築いた城だ。
名前も用土新左衛門と改め名実ともに藤田の家督を氏邦に譲ったことになる。
北条に圧迫されて家督を譲って二度までも姓名を変えて隠居しなければならなかった
重利の胸中はいかばかりだったろう。
僅かな救いは息子の重連が氏邦によって毒殺されたのが彼の没後であったことだろう。
城跡は住宅地になり、児童公園の一角に一本の石碑が建っているのみ。
カーナビのアバウトな地図に惑わされて迷走を繰り返したあげくに漸くたどりついた用土城跡。
たった一本の石碑だけだったが、今回の歴男ツアーのテーマにピッタリの城跡ではあった。