永享12年(1440)に起きた結城合戦が有名だ。
結城氏朝は幕府によって自害に追い込まれた鎌倉公方足利持氏の遺子春王・安王を擁して挙兵。
幕府の大軍を相手に結城一族は1年近くの攻防戦を繰り広げた末に壊滅的な打撃を受け、
春王と安王兄弟も処刑されてしまった。
しかし、幼かった末弟の千寿王は許されその後鎌倉公方・足利成氏として復権、
一人逃亡していた結城氏朝の四男・成朝を取り立てて旧領を回復させ恩に報いている。
その後結城氏は戦国大名として成長、秀吉・家康の時代をも乗り切り、
越前福井に67万国の大名として移封されるまで、
400年の永きにわたってこの地方を支配した。
残念ながら遺構らしい遺構は殆ど見られず、
復元中なのかそれとも埋め戻しているのか、
空堀跡にパワーシャベルがポツンと放置されているだけだった。
本丸跡には紫陽花の色が鮮やかだった。
結城城は、鬼怒川と田川によって形成された低地に突き出た台地を利用して築かれました。
したがって、城の周囲は沼や深田で取り囲まれたうえ、さらにその北側から東側にかけて田川が流れるなど、
平城でありながら天然の要害になっていました。
城は、実城・館・中城・西館・東館と呼ばれた五つの大きな曲輪と、付属的な曲輪から構成されていました。
現在、城址公園があるところが館で、江戸時代に結城水野氏が城を築いたときには、この部分が本丸でした。
また、この館の北側に、現在は残されていませんが、かって5反ほどの曲輪が存在し、
室町時代の結城氏の城では実城と呼ばれ、主郭であったと考えられます。
また、館の西側の曲輪が西館で、南側の曲輪が中城、さらに中城の南側で、城のいちばん南に位置しているのが東館です。
これらの曲輪は、内堀で区切られていました。
城全体をほぼ南北と東西にわける内堀は、深さ6〜7m、幅20〜25mにおよぶもので、台地上では水はでないため、空堀でした。
この曲輪と曲輪を結ぶため、内堀には土橋や木橋がかかっていました。
現在、城址公園から南に通じる道路には土橋が残され、浄水場の正面前の道路も館と西館を結ぶ土橋であると考えられます。