鎌倉公方の干渉に対して三度反抗して最後は自害して果てた小山義政の城だ。
義政の時代は鷲城が本城で小山城が支城だった。思川の崖端にあって周囲を泥田に囲まれていたので、
鎌倉公方の大軍相手に半年間も持ちこたえた堅城だったとか。
残念ながら藪に阻まれて本郭周辺の遺構を見て回ることは出来なかった。
本郭跡に建てられた鷲神社の境内の看板がなんともユーモラス。
曰く、「境内で大・小をするとチンチンが腫れますよ」
康暦2年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏10代の義政は、
3次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。
「小山義政の乱」と言います。
この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとした氏満の策謀があったとされ、
その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。
最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、
二度目の蜂起となる康暦3年には鷲城に立て籠もって戦います。
しかし義政は結局敗れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北600mで、
中城と外城との二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。
中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。
南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、
貴重な史跡と言えるでしょう。