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風来亭 フォト日誌

下野歴男ツアー

2010年6月19日

祇園城

小山城跡(祇園城)
栃木県の小山駅で都内と日光から来た仲間と落ち合ってレンタカーで出発。 小山といえば上杉征伐の家康軍が石田三成挙兵の報に接して開いた小山評定で名高い。 評定が開かれたのは現在の市役所付近ということだが無視して小山城に向かう。 謙信が長駆して攻め寄せた小山城訪問がかねての念願だった。 地方都市の城跡にありがちな市街化の波に足元まで洗われているが、 城址公園として良く整備されていて崖端城の趣を良く残し、 郭を隔す深い空堀が往時の名残りを留めている。





鷲城跡

鷲城跡 鎌倉公方の干渉に対して三度反抗して最後は自害して果てた小山義政の城だ。 義政の時代は鷲城が本城で小山城が支城だったとか。
城の北側は思川の崖端にあって周囲は泥田に囲まれていて、 鎌倉公方の大軍相手に半年間も戦い抜いた堅城だったとか。
かっての本郭に建てられた鷲神社の境内の看板がなんともユーモラス。
曰く、「境内で大・小をするとチンチンが腫れますよ」







皆川城跡

皆川城跡
斜面に樹木が無いため螺旋状の道筋や段郭・竪堀などが遠目にもはっきりとしていて 法螺貝や田螺に見えなくもない。別名螺旋城ともいわれるのも納得。
ここに旗指物や軍勢が居並んだ姿はさぞや壮観だったことだろう。 幾たびか大軍に包囲された城だが、 全滅するまで徹底抗戦というよりは、威勢を見せつつ和議に持ち込もうとする城のように思える。
今回のツアーで唯一山城風の趣がある城でひと汗かいた。






一乗院・会津藩士の墓

一乗院・会津藩士の墓
同行のS君の提案で、戊辰戦争の際に強盗と間違われて農民に惨殺された会津藩士・ 柴謙介の墓に詣でたいというので 栃木市の一乗院を訪れた。 柴謙介の弟・五郎は、義和団の乱の際に55日の籠城戦を指揮したことから頭角を現し、 会津出身でありながら陸軍大将まで登りつめた人物とか。
そんな人物を知っていることさえ驚きなのだが、その墓に詣でようということに驚きを禁じ得なかった。
予め「ある明治人の記録」(中公新書)を読むように薦められていたので、 無念の最期を遂げた会津藩士の墓前で素直に合掌。




通の隠れ家・蕎香

自産自消の蕎麦屋
歴史の時間は眼を爛々と輝かせていたS君、地理の授業では昼寝をしていたようで、これが全くの地図オンチ。 おかげで車は大迷走、目当ての蕎麦屋の閉店時間が迫る。
地図大好き人間のH君のナビゲートのお陰でなんとか時間内に蕎麦屋にたどりついた。 H君が情報網を駆使して見つけた壬生の蕎香(きょうか)がそれ。
田舎風のゴツゴツした蕎麦の風味を期待したが、つゆが甘めで繋ぎのトロロが効いてツルっとしたのど越し。
店構えの雰囲気は良いが「自産自消の農家そば処、通の隠れ家」という欲張ったコピーがちょいと煩い。
これさえ無ければまずまず・・・・・





専修寺の親鸞聖人お手植えの欅

親鸞聖人の専修寺
こちらも 歴史通のS君の提案による訪問。親鸞聖人の関東における布教の拠点となった寺院で、 かっては真宗最大の門徒を誇っていたとか。
訪れた時はそろそろ門限ということだったが、涅槃堂を閉めようとしていた御坊に質問攻め。 御坊には嫌がる風もなくS君の高度な?疑問に答えていただけた。


樹齢800年・親鸞聖人お手植えの欅





専修寺・親鸞聖人御廟

専修寺・親鸞聖人御廟
その後京都に帰った聖人は90歳で亡くなり、葬儀は専修寺の三代顕智によって営まれ、 その際遺歯九粒を持ち帰ってここに埋葬したものといい、国指定の宗教遺跡になっている。











空堀跡

結城城跡
永享12年(1440)に起きた結城合戦が有名だ。
結城氏朝は幕府によって自害に追い込まれた鎌倉公方足利持氏の遺子春王・安王を擁して挙兵。 幕府の大軍を相手に結城一族は1年近くの攻防戦を繰り広げた末に壊滅的な打撃を受け、 春王と安王兄弟も処刑されてしまった。
しかし、幼かった末弟の千寿王は許されその後鎌倉公方・足利成氏として復権、 一人逃亡していた結城氏朝の四男・成朝を取り立てて旧領を回復させてやり恩に報いている。






空堀跡

その後結城氏は戦国大名として成長、秀吉・家康の時代をも乗り切り、 越前福井に67万国の大名として移封されるまで、 400年の永きにわたってこの地方を支配した。
残念ながら遺構らしい遺構は殆ど見られず、 復元中なのかそれとも埋め戻しているのか、 空堀跡にパワーシャベルがポツンと放置されているだけだった。

本丸跡には紫陽花の色が鮮やかだった。


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