武田信玄の侵攻先での暴虐振りが紹介されるとき必ず引き合いに出されるのが、 佐久の志賀城と安曇野の小岩嶽城での攻城戦だ。 文字通り「侵(おか)し掠(かす)めること火の如し」ではある。
佐久・志賀城跡
雲興寺の裏手の山が志賀城跡と聞いたが、それらしい案内看板が無いので寺の娘さんに尋ねて教えていただいた。
「何もありませんよ」とはいつもの弁。堀切や土塁の形跡があれば、それだけで満足ですと私。
教えられた道を藪を掻き分けて進んだが、踏み跡も無い藪草や城跡に残された悲惨な物語に怯えて断念してしまった。
城主の笠原清繁以下300余の将兵は武田勢に対して徹底抗戦して討ち死にしている。
天文16年(1547)押し寄せた武田勢を相手に上州の援軍をあてにして籠城を続けた。 しかし頼みの上州勢は碓氷峠を越えて小田井原に陣取ったところで武田の猛攻を受けて敗退。 武田勢は打ち取った生首を志賀城の周りに並べてさらした。 これを見た城兵の士気は衰え陥落してしまう。 生け捕りにされた婦女子は甲府に連れ去られて鉱夫や遊女にされた。 清繁の才色兼備の妻は小山田信有の側室として売られたという。
安曇野・小岩嶽城
安曇野地方で小笠原方として最後まで武田勢に頑強に抵抗したのが小岩嶽城だ。
天文22年(1552)武田勢の猛攻に、降伏という選択肢は無かったのか城主以下500余名が討ち死にし、
共に立て籠もった近郷の住民が捕虜として捕らわれ、志賀城と同じような悲惨な憂き目にあっている。
本郭の片隅に戦没者の慰霊碑がひっそりと建てられている。本郭から背後の砦に通じる道があるが、
止山となっていて入山禁止になっているのが残念。