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風来亭 フォト日誌

戸神山 (石尊山・772m)

戸神山

関越高速道を北に向かって走らせると沼田付近で正面に見えてくるのが ピラミッドと見紛うばかりの端正な三角形をした戸神山だ。 かってキノコ眼の一族とともに秋には毎週のようにキノコ狩りに 玉原高原を訪れた時に見慣れてきた山だが、 山名を知ったのは高崎に引っ越してきた最近のことだ。

いつでも気楽に登れそうな山ということで後回しにしてきたが、急に思い立って登ることにした。
山容からして戸神山には戦国期の山城か狼煙台ぐらいはあったのかもと想像することも楽しい。





山頂の石燈籠と上州武尊山

虚空蔵尊神社のある登山口から入る。登山口の看板には山中に金山跡があると書かれている。 戦国時代にこの地を支配した真田氏が開発した金山で戦前まで採掘が行われていたという。
ガイドブックには「鉱山跡」としか紹介されていなかったので密かに驚喜する。

表示が無いのが残念だが土砂に埋もれかかった坑口の石積も確認することができた。 単なる土留めかもしれないだ石積みや削平地も随所にあって、 確かにここに真田の隠し金山があったことを実感。




沼田と子持山

40分程度の登りで山頂に到達。 標高は770m程度だが山頂からは360度の大展望。 上州武尊山や赤城山、榛名山、子持山、さらには浅間山などかって登った山々を一望。

利根川の流れをたどれば沼田城跡や名胡桃城跡の位置関係が視認できる。 「関東古戦録」には謙信勢が沼田城攻めの際に大石や巨木を投げ落としたと記述されているのもさもありなんと納得してしまう。 眼下に沼田城を巡る戦国絵巻が広がっているかのような錯覚さえ覚える。





観音寺から上州武尊山

暫し戦国惚けを楽しんだ後、下発知側に下山開始。


暗い杉木立の道を抜けるといきなり明るい青空と桜の花びらが舞う明るい空間に飛び出た。 下山口の観音寺だ。

付近のリンゴ畑の花が満開。

穏やかな山里の向こうには遠く残雪を抱く上州武尊山が眺められあたかも桃源郷のような趣。




観音寺の背後に戸神山から高王山に続く稜線

振り返って見ると段々畑が段郭のようにも見え、 観音寺は山城の入口に鎮座する城主の居館のような雰囲気。 背後の戸神山が全く異なる姿を見せている。

戸神山に鞍部を経て続く尾根筋に高王山城なる発知氏の山城があることを後から知ったが、 鞍部にあった段郭様の地形と考え合わせると、そちらと関係があるのかもしれない。
機会があったら調べてみよう。




玉原高原に続く県道まで下って登山口に戻る途中、 道沿いにある「海野塚」に立ち寄った。讒言によって真田昌幸に討たれた海野輝幸親子の墓だ。
輝幸を主人公にした「執念谷の物語」という海音寺潮五郎の短編小説が新人物文庫から刊行されている。

2010年5月2日


<沼田市指定史蹟 海野塚>

海野塚

真田昌幸は、小田原北条氏が藤田信吉に守らせていた沼田城を天正8年(1580)6月、手中に収め、 真田一族の海野能登守輝幸を二の丸、藤田を本丸城代に、金子美濃守を執事に据えて9月に甲府へ赴く。 輝幸の兄幸光は岩櫃城代であった。この兄弟をねたむ者の「海野は北条と通ずる」との讒言を信じた昌幸は、 まず弟の信尹に命じて先ず幸光を急襲して討ち、直ちに沼田城に入った。輝幸は、「主家に二心無き証をたてん」と 迦葉山を目ざす途中、岡谷地内で真田勢に追撃された。輝幸は、真田の検視役・田口又左衛門と沼田一の豪者・ 木内八右衛門を人たちで討ち、嫡男幸貞と「無益の殺生はこれまで」と刺し違えて自刃した。父子をここに葬り、 海野塚と称した。

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