なんとも不可解というか怪しげな城跡があったものだ。郭跡と思われる場所に地元の三波石で石垣が積まれ、
隅櫓の土台も構築されている。しかし三波石が新しい。
鮎川の河岸にある日帰り温泉金井の湯から城跡部分を見上げると、
これらの石垣が明らかに観光用に復元されたものであることを了解する。
御愛嬌にも石垣の一部が温泉の敷地内に崩落していたりして、その部分だけは妙にリアル。
崩壊で復元工事をあきらめたのか、別の郭には三波石の集積場があった。
しかしこうなると説明看板の付近にある崩壊寸前の石垣も怪しまざるを得ない。
位置も向きも合理性を欠くし、傍らに立つ4基の不揃いな石碑が疑問を深くする。
「天明4年」とか、梵字なのか一部分だけことさらに「死」の文字を強調していたり、
墓碑のようではあるが何か悪い冗談ではないかと思えてしまう。
かってこの城を復元しようとした試みが数次にわたってあったのかもしれない。
もしかしたら今後も実行されるのかもしれない。
これはもう温泉に浸って笑って帰るしかないかなと思ったりもしたが、
郭跡の断崖から見下ろす鮎川の眺めはここが確かに城跡だと主張しているように思え、
気を取り直して要害山城を目指して藪道を登る。
藪を掻き分けること20分、郭を取り囲む横堀の見事さに思わず声を上げてしまった。
こうなると天屋城への期待が膨らみさらに山上を目指す。
黄色のテープの目印だけを頼りに踏み跡も定かでない急斜面をおよそ60分
枝にすがり枯葉に足を取られながらの攻城。眼下にゴルフコースが見える。
四苦八苦の末にたどりついた尾根筋は幾筋もの堀切で分断された
典型的な梯郭式の山城の様相を呈している。
本郭は尾根の北端にあって周囲に帯郭が巡らされていて、
小規模ながら虎口の痕跡もあったりして喜ばせてくれる。
登りには気がつかなかったが、堀切が竪堀となって山裾まで下っている様子も確認できた。
百間築地辺りの怪しげな史跡もどきに呆れた後だったので、
ここまで完璧に山城の遺構が残っていることに感嘆。
久々の本格的な山城攻めに満足して温泉に浸った。
日野城とも呼ばれ高山氏の城。要害山、天屋城、百件築地の砦等から構成されている複合城で
珍しいものである。
天屋城はこの城の西南部にあり標高287メートルの三角点にあり北端を本丸とし
としそこから西北東南西南にのびる三筋の尾根を掘り切って築いた山城。
要害山城 :天屋城の西北250メートルに本丸を構えた梯郭式山城標高180メートル。
高山城 :百間築地要害山 北下が高山城の本郭で東西200メートル、南北100メートル余り、
西北部に百間築地と呼ぶ石畳址がある。