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石倉城跡・蒼海城跡

石倉城縄張

国道17号線で高崎から前橋市街地に入る際に群馬大橋で利根川を渡る。 前橋城の本丸部分を崩壊させた流れは現在もなお勢いよく流れ続けている。 しかしこの流れはかっては利根川本流ではなく、 石倉城の水堀として小川から引き込んだところ、大洪水によって流れが変わって本流と化したものという。
利根川を挟んで前橋城(厩橋城)の対岸にある石倉城跡を訪れた。 武田信玄が厩橋城攻略のために築いたとされる城だが、遺構は確認できず 崖端に立って対岸の厩橋城跡を臨むことで僅かに往時を偲ぶのみ。
二の丸跡とされる公園の片隅に碑文と縄張図があったが、暫く首を傾げてしまった。 碑文中に記述されている石倉城は厩橋城の前身の石倉城のはずでこの城とは別物。 石碑に刻んでしまったものは撤去する訳にも訂正する訳にもいかないだろう。

総社神社の道祖神

もしかしたら厩橋城址(前橋城)に移築したら使用できるかとも考えたが、内容の検証は後日の楽しみとしよう。
鳥瞰図に描かれている石垣の天守や隅櫓もあり得ない。 郷土愛が時としてこのような誤りを犯すことはありがなので、 これはもう笑うしかあるまいということで、総社長尾氏の蒼海城に向かう。
蒼海城は総社長尾氏が厩橋城の前身となる石倉城を築くまでの本拠地。 「天地人」のお船の前夫・信綱はここの出身。



蒼海城縄張

元総社町の大部分が蒼海城の城域ということなのでほとんど予備調査をせずに現地入りしたのが大間違い。 市街化の波に呑み込まれた平城は何処が核心部か全く見当がつかない。 まずは総社神社で縄張図を眺めてから傍にあるという御霊神社を目標に本丸跡に向かったが、 縦横に入り組んだ道に阻まれて到達できない。 それらの道そのものが往時の堀や土居の跡のようでもある。 付近の人に御霊神社の所在を尋ねるが、誰も知らないようだ。
結局、総社神社まで戻って宮司さんに教えていただき漸くたどりつくことができた。
御霊神社の周囲には土塁や高低差のある郭跡と思しき地形が見られたが、 一族の館を自然発生的に列郭式に連ねたものでは、たとえ規模が大きくとも防御機能は不十分であり、 厩橋城への移転もうなずけるところだ。
掃き清められた総社神社本殿の裏に群立する道祖神や祠が印象的だった。



2010年4月3日

注:碑文は長尾憲景築城の石倉城と信玄築城のそれとを混同している恐れあり、検証中。


石倉城之記(石倉城二の丸公園の碑文)

石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。 応仁の乱が終わって(1477)8年後のことである。当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に幅広く流れていた。 橘山の麓より利根川の水を久留間川という小流を利して城の堀に引き入れたという。
山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北條早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。 一方、総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭してきた。 長尾憲景は永正9年(1512)新井城の戦いで戦死、三男長景が城主となった。その後、享禄・天文・弘治年間 (1528〜1557)にわたる数回の大洪水によって本流が久留間川に移り、現在の利根川になった。
永禄6年(1563)武田信玄の西上野への侵攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、 城代として曽根七郎兵衛、興左衛門の兄弟を置いた。永禄8年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、 荒井甚六郎を城代として守らせた。
石倉城は関東の要衝であるため、永禄9年(1566)7月、再度信玄に攻め取られ、 武田の武将で保渡田城主の内藤修理亮政豊及び外記親子が兼帯した。 その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条丹後守高広に降り、 北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が守った。
この間80有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史をくりかえし、天正18年(1590)5月、 徳川勢の侵攻に対し寺尾左馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。 攻めるは松平修理大夫康国であった。康国はこの戦いで戦死、弟の松平新六郎が1千有余騎で攻めまくった。 左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、 左馬助を始め城兵ことごとく城炎とともに相い果て、ついに落城の運命となった。
この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城地も、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、 今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。 よって後の世にその名をとどめ伝えるべく、石倉城の記とした。

平成元年3月吉日 石倉史蹟愛好会撰文

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