山城巡りをしていて道に迷うことがしばしばあって、地元の人に城址の在り処を尋ねることがあるけれど、
ほとんどの場合、「何も無いよ」とか、「行くだけ無駄」なんて感じでぶっきらぼうな答が返ってくる。
だが、城址の存在を知っているのはまだ良い方で、その存在すら知らない場合も多い。
尋ねる方も尋ねるほうで、探している城址の多くは名も無い小城で、酔狂なことこの上なく、
地元の人の無関心を非難する訳にもいかない。
仮に目の前に城址があったとしても、関心の無い人から見たら、眼前の溝や土盛りが城の遺構だなどと気付くはずも無い。
ところで、この光城址のある光城山は、春ともなると麓から山頂にかけて桜の花が一直線に咲き上がる光景で知られ、アルプスの絶好の展望台でもある。かって桜の季節にアルプスの展望を求めて麓から登ったことがあるが、城の遺構には全く気がつかなかった。山の裏側に車で安直に到達できる車道があることを知っただけだった。
山城に関心を抱くようになって再び光城山を訪れたところ、小なりとはいえその遺構が明瞭に残っていることを発見して、
改めて無関心であることのもったいなさと恐さを痛感した。
この山頂にお城が築かれたのは遠く500余年の昔、戦国時代もまだ初めの頃、
海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光六郎幸元と名乗ったといわれている。
この海野氏の一族は、その頃会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔の原にそれぞれ城を築き、
互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、
場内のもっとも高い所でノロシ台のあたりに
火の守り神とされる此の古峯神社が祭られてきたものであろう。
やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近づくや、武田信玄)晴信)の先鋒によって、天文22年(1553)3月、
刈谷原城などと共に光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。