謙信の同族・足利長尾氏が拠った両崖山城。織姫神社側にある古墳から歩き始める。両側が灌木で覆われた急斜面となっている尾根道が続く。往復4キロの快適なハイキングコース。越山してきた謙信が立ち寄ったかもしれないと想像しながら歩くのも楽しい。
腰郭跡の紅葉が見事だった。
前期古城
平安時代、天喜2年(1054)に藤原秀郷の子孫伊勢崎淵名城主藤原成行が足利に入部、両崖山に築城したと伝えられます。以来、130年間足利地方を治めました。丁度その頃、奥州に乱が起こり、天喜4年、源頼義、義家父子が平定に出発しました。源氏の軍勢は、足利浅間山の南麓を中継基地としました。これがもととなり、源姓足利氏が発生したのです。藤原成行の足利進出は、この源氏の面倒を見るためだったとも考えられるかもしれません。
治承4年(1180)源平合戦が始まると源姓足利氏棟梁義兼は挙兵、頼朝の側近として活躍しました。義兼は頼朝と同じ八幡太郎義家4代の後裔で、母方の従兄弟でした。両崖山の藤姓足利氏は立場上、時の政権平氏に従っていました。源平合戦の時、両崖山城主藤原俊綱の嫡男、足利又太郎忠綱は、京警護のため平家の軍勢の中におりました。源三位源頼政の軍勢と平家の軍勢が宇治川で合戦となりました。
この時足利忠綱は17歳でしたが、藤原足利氏を率いて宇治川を渡る一番乗りの功名を立てました。この様子は「平家物語」に橋合戦として詳しく書かれて世に広く知られています。
両崖山の藤姓足利氏は中立を守ろうとしましたが許されず、治承5年9月三浦義茂率いる源氏の軍勢が渡良瀬川まで押し寄せてきました。総攻撃の前日、城主藤原俊綱(60歳)の首が源氏の本陣に届けられ、攻撃は中止されました。「吾妻鏡」には家来の桐生六郎に謀殺されたと書かれています。しかし、城主俊綱が自分の首一つで戦いを回避したとも考えられます。
藤姓足利氏は消滅し足利地方は源姓足利氏に統一され治められました。
後期古城
戦国時代、足利は古河の公方軍と上野の上杉軍の戦場となりました。
文正元年(1466)上杉方の武将、長尾景人が代官として入部、岩井山に観農城を築きました。足利長尾三代政長が両崖山城に移り再建しました。両崖山で戦いが行われたことはありませんでしたが、堅固な城砦として両毛地方に睨みを効かせました。戦国末期、関東は小田原北条氏の支配下となり、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、足利長尾も滅亡しました。