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小平漁協のフォト日誌

故郷の川 <松本市女鳥羽川>

  もう幾度、中央高速道を往復したことだろう。
 一昨年から今年にかけてのアウトドアブームもあって長野県方面への出張が増え、 故郷である松本の町々を高速道路上から眺めながら通り過ぎることが多くなった。その都度運転席から横目で松本城の天守閣を探し求めるのだが、高いビルが増えたためだろう、ついぞ見つけ得ないでいる。生まれてから11歳の夏まで暮らした松本、その後、富山、新潟、小平と、それ以上の歳月をそれぞれの町で過ごしてきているので、故郷と呼べるのは果たして何処なのか、自分でも判らない。でも「マツモト」という響きには訳もわからず郷愁を感じてしまう。
 今回は白馬村と奈川村を一泊二日でロケハンすることにしたので、松本市内に宿を取った。久しぶりに故郷の町で呑んだくれるためだ。白馬村でのロケハンを早めに切り上げ、竿を出したい誘惑にも打ち勝ち、明朝奈川村に同行するスタッフが待つ松本へと引き返す。その昔住んでいた辺りを車で通り過ぎながら、幼友達がやっている飲み屋の看板が多少くすんではいるが、15年前と同じ様に掲げられているのを見てなぜかほっとする。その時も15年振り位に突然訪問してビックリさせ、看板まで呑んだくれ、挙げ句のはて自宅まで襲って友人の両親も巻き込んで酔態を晒してしまったのだった。
 市内を流れる女鳥羽川と田川の流れが合流する辺りに、幅3〜4尺ほどの手摺りもない小さな橋があって、上流に30メートルほど行けば白板橋というちゃんとした橋があるのに、友人の家に行くにはこちらの小橋が便利でよく利用していた。ある時、この橋から自転車もろとも2〜3m下の河原に落ちてしまい、怪我はなかったが暫らく気を失ってしまったことがある。
 それからしばらくしてこの橋は無くなった。

 この橋を正面に眺める地点に「月見屋」という川魚料理屋があって、田川の河原に梁場を作って漁をしていたから、当時は水も綺麗だったのだろう。近所に住んでいた叔父は季節になると「アカウオをニガミに行く」といって、毎晩河原に出掛けていったものだ。独身時代の叔父の唯一の娯楽らしかった。橋脚の下の澱みに竿を出す釣り人の姿もあったと記憶している。 また、雨で増水した時などザルで川岸の草叢の根元を掬うといくらでも泥鰌が獲れたものだ。バケツいっぱいに。
 お盆には月見屋主催で「灯篭流しコンクール」が開催され、麦藁と竹で作った灯篭が幾つも幾つも流れて行く様は壮観だった。 私も花火の飛行機を発射する「空母」を作って一度だけ参加したことがあるが、 審査本部のある月見屋の前に流れつく前に川波のために敢えなく轟沈、 スピーカーで早く流すように名前を連呼されて督促されたのが恥ずかしかった。 その時小学5年生、松本最後の夏、その年の優勝作品は確か「ゴジラ」だった。 幼友達の店はこの月見屋のスグ近くにある。
  素面のまま店を訪れるのも何かしら気恥ずかしくて、 適当な飲み屋を探し求めて松本の町を若いスタッフを連れてうろつき廻り、挙げ句に馬刺しとイナゴとヤマメの塩焼きを無理強いしながら、 松本の思い出話をウダウダと繰り返すうちに、松本の夜は早く、はやカンバン。 女鳥羽川沿いに流れを十数分も下ればスグに幼友達の飲み屋。看板の灯りは既に消えているものの、 戸口から灯りと笑い声がが漏れている。恐る恐る引き戸を開けると、「スイマセン、もう終わったんです」 狭い店内には若い男女の団体サン、その向こうから丸い笑顔が返ってきた。ん?誰だっけ?三兄弟のうちのアイツは何番目かな? すっかりオヤジになっちゃって、お互いの顔の見分けもつきゃしない、名乗るのも唐突過ぎる気がして「それじゃあ、また」と戸を閉める。 商売店繁盛で何よりのこと。なにやら満ち足りて、ホテルへの道すがら飛び込んだ店でまたまた痛飲。

 翌朝6時、寝不足気味のスタッフを叩き起こして出発進行。途中で覗いた女鳥羽川には、丸々と太った鯉とニジマスが群れ泳いでいた。
 今日こそ竿を出すゾと密かに決意して、次のロケハン地の奈川村に迎う。 

1993年6月4日〜5日  故郷は遠くにありて想うもの、か?


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